日本でフランス料理を紹介する人の中には、フランス料理のシェフや料理研究家がいます。
フランス料理のエッセンスを知りたい方には、料理研究家の上野万梨子さんをご紹介します。
フランス料理の知名度が上がる前にフランス料理を学ぶためにパリのコルドンブルーで学び、現在はパリで暮らしています。
年々、引き算のフランス料理の魅力に気づき、フランスの歴史も深めながら、食べる楽しさやフランス生活の楽しみ方を伝え続ける上野万梨子さんをご紹介します。
上野万梨子、夫は?
上野万梨子さんは、プライベートな情報もほぼ出ていないため。結婚されているかは不明ですが、おそらく独身ではないかと思われます。
上野万梨子、実家は?
上野万梨子の実家は、東京・玉川田園調布です。
上野万梨子は小学校から高校まで12年間、自由学園で学びました。
獨協大学在学中から飯田深雪に師事しました。
1976年にル・コルドン・ブルー・パリ校を卒業しました。
フランスから帰国後、玉川田園調布の実家でフランス料理教室を主宰していました。
上野万梨子、フランスとの出会いは?
上野万梨子さんがフランス文化に出会ったのは、18歳の時で飯田深雪さんの料理教室に通い始めた時のことでした。
上野万梨子は祖母の勧めで、現在の西武池袋線ひばりが丘にあった自由学園を見学しました。
自宅から都電で数駅のところにあった学芸大附属小学校の入学試験で一次に合格通過していました。
母親に連れていかれた自由学園は武蔵野の野や丘の起伏を活かした風景に囲まれた場所にありました。
広大な敷地の管理は、自由学園の生徒が行っていました。
初等部や男子中高等部の昼食作りは、母親の当番制だったといいます。
女子中等部に上がると昼食は生徒自身がクラス順に担当し、中高短大の全生徒分を手作りしたそうです。
独協大学在学中より料理研究家・飯田深雪氏に師事し、フランス料理を学ぶため渡仏。
1976年、ル・コルドン・ブルー・パリ校を卒業後、1977年に帰国後、東京の自宅にてフランス料理教室を主宰。
当時、フランス料理は西洋料理と紹介されていました。
「オムレツやスープもフランス料理です」という明快なメッセージで、重厚なイメージだったフランス料理を日本の家庭に広める先駆けとなりました。
以降、雑誌、テレビなど多方面で活動を展開。
上野万梨子、パリの暮らしは?
上野万梨子は、1991年にはパリに拠点を移しました。
上野万梨子は、それ以降、日仏両国の食と生活文化の架け橋として、執筆、食イベントの企画編集、商品開発などを手掛ける。
料理家としての確かな技術と、自由な発想が高く評価され、幅広い世代から支持を集めている。
独特の視点とリズムで綴られるエッセイのファンは多いです。
上野万梨子は自由学園初等部時代の思い出が匂いにまつわることが多かったと振返っています。
芝生から立ち上がる青草の匂い、池の底の苔の匂い、先生が使う朱色の墨汁の匂い、昼時に校内のパン工場から漂う焼きたてのパンの匂い。
人が頭の中に留め置いておく匂いの記憶、それが料理の発想が脳みそを舌にして香りの記憶から生まれるのは道理だと本人が書いています。
上野万梨子は日本に一時帰国をしてパリにもどってするのが、朝市(マルシェ)に行くことでした。
マルシェでは、肉、魚、野菜、チーズ、シャルキュトリー、そしてパンにエピスリーと、花以外はそれぞれ数店ずつ出店しています。
野菜スタンドではムスクラン(芽葉野菜のサラダミックス)にサラダほうれん草とセルバチコを混ぜてもらい、カサがキュッと固い小粒のシャンピニョン・ド・パリもサラダ用に買って帰宅しました。
マルシェから帰ると、早速サラダの葉をザブザブ洗って、あら、、、?
その昔の留学時代、真夏に茹で上げたお素麺を洗うパリの水道水がキリッと冷たいことに、日本人の友達同士でびっくりし合ったものでした。
その頃夏の東京の水道水といったらぬるま湯のようでしたから。
それから50年経ち、パリの水には確実に温暖化の影響が及んでいることを実感したのでした。
パリだけではなく、フランスでは地方都市に必ずマルシェがあります。
例え、観光旅行でもマルシェに行くことをお勧めします。
新鮮な野菜、果物、肉、チーズのほかにパンやハム、スパイス売り場もあり、そこを歩くだけで料理のイメージがわくほど「食」を取り巻く環境がそこには存在していますよ、
上野万梨子、書籍は?
1980年、上野万梨子初の著書『シンプルフランス料理』(文化出版局)を刊行されました。
上野万梨子さんの著書は、多数ありますが、料理だけではなく暮らしにも触れたエッセイ『パリのしあわせスープ 私のフランス物語』(世界文化社)をお勧めします。
その他の著書としてご自身のサイトに記載された著書をご紹介します。
WA-fumi à la rencontre des saveurs du Japon
2002年9月出版
『小さなフランス料理の本』(NHK出版)
2008年9月
『アペロでパリをつまみ食い』(光文社)
2019年5月出版
『Mariko食堂 ごちゃまぜパリ風レシピ』(扶桑社)
2024年3月出版
上野万梨子の料理教室は?
パリについて二ヶ月たった頃の6月には「料理研究家になりたい」と思い始めていたといいます。
料理研究家になりたい、パリのコルドン・ブルーで料理を学んでいた日本人の同級生に問われたフランス料理を学んで何がしたいのかという問いへの上野万梨子の答えでした。
1976年末にパリを引き上げて日本に帰国しました。
正月をあけて1月半ばに、クリスマス休暇のような心持だった上野万梨子は、目を覚ましました。
1977年に帰国後、東京の自宅にてフランス料理教室を主宰。
パリで思い描いていた料理教室のイメージがありました。
上野万梨子が出門ストレーションをみてもらった後に、会食形式で前菜・主菜・デザートの三品を順を追って食べてもらうイメージでした。
当時の料理学校の主流は実習形式。
先生の説明の後、小グループに分かれて積極的な人主導で料理を作り、完成した後に試食。
温かいものは冷たく、冷たいものはぬるくなったといいます。
一番、美味しい瞬間を逃すのは避けたかったといいます。
馴染みのないフランス料理をいきなり実習で作ってもらうのもどうかなと感じていました。
この料理教室のスタイルは、当時では画期的だったといえます。
ガリ版で作ったフランス料理開講のチラシを近隣に配ったそうです。
フランス料理教室が非常に珍しい時代に申込みが殺到したのです。
東京での料理家として仕事を始めてから14年後に再びパリへと旅立ちました。
すっかり、パリに軸足を移した料理研究家の暮らしがスタートしました。
それ以後、時々、日本に帰国しては単発で料理教室を開催しているようです。
上野万梨子が伝える料理とは?
上野万梨子が教える「食材に力があれば塩と水だけで十分美味しい料理ができるの。」という考え方を解説します。
そんな「フランス料理」の先入観を鮮やかに覆し、現代の食卓に新しい風を吹き込んできたのが上野万梨子さんならではの哲学です。
その根底には、大地に足をつけ自信を持って農作物を育てる作り手への讃美が込められています。
このシンプルかつ力強い調理を支えるのが、鋳物ホーロー鍋「ストウブ」です。
上野万梨子が選んだ鍋は、「ブレイザー・ソテーパン(24cm・グレー)」。そこにはプロならではの道具に対する「合理的な愛」が詰まっています。
上野万梨子が伝える本質は、「手間」を省き、同時に「質」への誇りを思い出させてくれます。
食材の声を聞き、最適な道具を選び、丁寧に仕上げた一皿がある「家ご飯」の落ち着き。
フランスの家族と過ごす日々は、シンプルな料理が多いです。
それは、とれたての野菜やハーブの美味しさがあるからです。
さらには、素材の味を引き出すには、塩と調理時間も大切なポイントです。

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