ジヴェルニーの庭、ジヴェルニーの庭行き方、ジヴェルニーの庭原田マハ、ジヴェルニーの庭の食卓、ジヴェルニーのモネの庭

日本でも人気のある印象派の作品をめぐる展覧会が三菱一号館美術館と国立西洋美術館で開催されました。
印象派の活動が芽生えたのが1870年から1880年代、19世紀後半です。
印象派のクロード・モネの人生を作家の原田マヤさんの本で知りました。
人間らしく生きる、その理想の形がジヴェルニーの庭です。

画家であると同時に生活を大切にしたクロード・モネが作り上げたジヴェルニーの庭を紹介します。

ジヴェルニーの庭

50代となったモネが理想の庭作りに熱をいれて手掛けたのがジヴェルニーの庭です。

印象派の画家たちが活動を始めたのは19世紀後半のことです。
クロード・モネは1840年にパリ生まれ、5歳で家族とともにフランス北西部のノルマンディーに引っ越しました。

彼が芸術の活動を始めたのが15歳でデフォルメをした戯画を描くようになり、18歳には油彩画も描くようになりました。
本格的に画家を目指し、パリのモンマルトルに部屋を借りました。

一時、兵役のためにアルジェリアに行きますが、病気になりフランスにもどり、パリでルノワールやシスレー、26歳でマネとも出会いました。
当時のパリの画壇は、芸術アカデミーという集団が権力を持っていたため、印象派の画家たちは受け入れてもらえずに苦労が続きました。
30代頃のモネの暮らしは苦しくて、食べるものにも困っていたといいます。
40代になり、作品が少し売れたり、印象派の展覧会が開催されるようになって、暮らしは落ち着いていったようです。

50代でジヴェルニーの土地を購入し、庭作りに熱が入っていきました。
ジヴェルニーの土地をさらに購入して、水の庭を造ることが目標となっていきました。

ジヴェルニーの庭という作品が誕生するまでを想像すると、画家として売れるまでに時間がかかっています。
50代となったモネが理想の庭作りに熱をいれて手掛けていたからこそ、ジヴェルニーの庭という作品が誕生しました。
長い道のりを経て、作品が売れるようになったんですね。

ジヴェルニーの庭行き方

ジヴェルニーはパリから簡単に日帰りで行くことができます。

クロード・モネが晩年に住んだ家と彼が精魂を込めて作り上げた庭園のあるジヴェルニー。
ジヴェルニーは、ノルマンディー地域圏の南部に位置する人口500人余りの小さな街です。


ジヴェルニー行きの列車はサン・ラザール駅からほぼ1時間おきに出ています。
ジヴェルニーのモネの庭がある最寄り駅はヴェルノン駅です。

 

ヴェルノン駅に着いてからは徒歩かシャトルバスなど、いくつかの選択肢があります。
シャトルバスと小さな列車では、どちらもジヴェルニーまで約15分かかります。
シャトルバスは通常、パリからの列車が到着した数分後に発車して、往復10ユーロかかります。

パリから日帰りツアーを催行する会社はたくさんありますが、個人で行く方がはるかに自由度が高いのとお得です。
帰りのバスや電車は、空席よりも待っている人の方が多い時間帯があるので要注意だそうです!
ジヴェルニー発のバスが来る前に到着するようにしましょう。

モネの庭の開園期間は4月1日から11月1日まで。
ヴェルノンからジヴェルニーへのシャトルバスは、4月から10月までのみ運行しています。

ポピーのような野の花を楽しむには、4月から6月がベストシーズンです。
睡蓮の花狙いなら、6月末から8月。
花は次々と開花するので、庭は季節ごとに少しずつ表情を変化させます。
観光客が割と少ない色彩と明るさも十分たもった秋もとても心地いいです。

ジヴェルニーの庭原田マハ

原田マハさんの小説の中にジヴェルニーの庭が描かれた「ジヴェルニーの食卓」という作品があります。

原田マハさんの本に出会ったのは、印象派の画家たちの作品や画家たちの人生を図書館で調べていた時でした。
当時の印象派の画家たちの人物像にも興味があり、情報がほしくて探し当てた結果でした。

印象派といえば、ルノワールやマネもいますが、原田マハさんの作品を通して、人間モネへの思いが募りました。
そしてもう1作「モネのあしあと」というモネの人生をたどる内本もありました。

ジヴェルニーの庭を作る目的は、追い求めた光をとらえて作品に描くというモネの試みがわかるようになりました。
ジヴェルニーの庭には、ただの庭作りだけではなく畑や果樹園まで熱を入れて作りました。
さらに、ジヴェルニーの庭は水の庭を作るに至り、睡蓮という作品が誕生する背景までよくわかります。

ジヴェルニーの庭に咲く花や植物も含めて、どのような庭だったのかも知ることになりました。
具体的にジヴェルニーの庭に植えられていたのが、ゼラニウム、アイリス、バラなどで、春になると咲く庭、その小道を歩くと母屋にたどり着くことができたのです。

春の陽射し、咲き乱れるゼラニウムやアイリス、バラの花たちが咲くジヴェルニーの庭。
絵画にみられる色彩豊かな庭の植物、木漏れ日たちまで、照らされていたことと思います。
毎日、自分が手がけた庭を眺めるのが幸せを感じる時間だったのかもしれません。

ジヴェルニーの庭という作品には、太陽の光と美しく咲く植物が描かれて、その庭にいるような気持ちになります。
この2冊を通して、モネの人生に共感し、クロード・モネが好きになりました。
生活者として、料理を愉しむ姿勢がいいなあと思いました。
彼が描いた作品だけではなく、彼が描き続ける原動力となった日常の暮らしや食卓、そしてキッチンやリビングまでも親しみをもって眺めるようになったのです。

ジヴェルニーの庭と食卓

クロード・モネが作ったジヴェルニーの庭は、ただの庭作りだけではなく畑や果樹園まで熱を入れて作りました。

それは、作品としても残っています。
モネが残した静物画には、果物やタルト、そしてジヴェルニーの庭で食卓を囲む家族が描かれています。

ジヴェルニーは、モネがこよなく愛し晩年を過ごしたフランスの土地であり、理想の庭を作りました。
色とりどりの睡蓮、日本風の太鼓橋、藤棚。

別の書籍の中では、ジヴェルニーの庭に併設された畑や果樹園で作付けされた野菜・果物がわかります。
クロード・モネは料理を食べる時には付け合わせにグリーンサラダを選んだそうです。
ジヴェルニーの庭の食卓に並ぶ大盛りのグリーンサラダ。

クロード・モネが残したレシピでは、セザンヌ風とサブタイトルがついています。
セザンヌは、南フランス出身、南フランスでよく食べるブイヤベースもジヴェルニーの庭の食卓には並んだことと思います。

クロード・モネが睡蓮を描いたアトリエは鶏小屋だったそうです。
だから、ジヴェルニーの庭の食卓には鶏料理も並んだことと思います。

ジヴェルニーの庭はモネの理想の庭であり、「理想の食卓を担う場所だったのかもしれません。

 

ジヴェルニーのモネの庭

ジヴェルニーのモネの庭は、クロード・モネが43歳で移り住み、86歳で亡くなるまで彼の手によって完成していきました。

パリから北西に約80km、ノルマンディー地方のこの村ジヴェルニーに移り住みました。
広大な庭のある細長い家をみつけ、この場所がとても気にいりました。
持ち主と交渉をして、家族も呼び寄せたうえで、ジヴェルニーのモネの庭を作りました。

このジヴェルニーのモネの庭で、最後の20年間はひたすら「睡蓮」を描いていました。
ジヴェルニーのモネの庭は、睡蓮の池に反射されて映し出される風景は、季節とともに移り行く水の色、雲の形、風の香りが、一日として、いや一時間として同じ風景はない水面の世界がありました。

晩年は、妻も息子も先立ってしまい、自身は白内障を患っていたのにジヴェルニーのモネの庭とともに生きたのです。
ジヴェルニーのモネの庭では、困難な中でも、睡蓮の展示を計画し、モネは「睡蓮」を描くことを続けました。

ジヴェルニーのモネの庭には、なだらかな丘が続きました。
ジヴェルニーのモネの庭にある睡蓮の池の水面に反射する空と木々のグラデーション。
光をキャンバスにとらえ続けたクロード・モネ、最後までジヴェルニーのモネの庭を熱心に描き続けたが残っています。

貧しいからこそ、知恵を絞りながら暮らしを続けてきたことでしょう。
苦しい時期を乗り越えながら、光を画に取り入れることを追い続けたモネ。
画家として、家族の長として、クリエイターとして、庭師としての活躍を遂げたモネ。
その集大成がジヴェルニーのモネの庭です。

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