マチューガニオ、引退?理由は?代表作は?柚香光?現在は?

40年以上前から、日本では海外のアーティストの演奏や舞踊をみることができました。
海外旅行が当たり前になる時代だったので、日本に住みながらも一流の芸術が観られる幸せを享受できていました。
特にバレエ団としては、英国ロイヤルバレエ団とパリオペラ座バレ団の存在はひときわ華やかです。
昨年、そのパリオペラ座のエトワールを卒業したダンサーがいます。
それが、マチューガニオです。
ダンサーとしてのマチューガニオとこれから先の活動について紹介します。

マチューガニオとは?

マチューガニオとは1984年3月16日フランスマルセイユで生まれました。

父はデニス・ガニオ、母はドミニク・カルフー二(元パリオペラ座バレエ団エトワール)
両親ともに世界的なバレエダンサーでした。

1992年:マルセイユバレエ学校に入学。
1998年:バレエ学校の公演で来日。
1999年:パリ・オペラ座バレエ学校に編入。
2001年:パリ・オペラ座に入団。
2004年:スジェに昇進。

2004年5月20日に『ドン・キホーテ』のバジルを踊り、スジェだったマチューガニオは20歳でエトワールに任命されました。

驚くべきはそのスピードです。
通常は、スジェ・プルミエダンス―ル・エトワールという順に階段を昇って行くのがパリオペラ座バレエ団と常識でした。
2004年1月に「スジェ」に昇進したばかりのマチューガニオは、わずか4ヶ月後の5月にはエトワールへと駆け上がりました。

当時の芸術監督ブリジット・ルフェーブルから、『ドン・キホーテ』のバジル役を急遽代役として覚えるよう命じらました。
マチューガニオはそのバジル役は自分には合わないと思っていたため「なぜ僕なんだ?」「うまくやれるのか?」という自問自答を繰り返したといいます。

ないのが2004年の伝説的な昇進劇です。通常、オペラ座の階級は一段階ずつ昇るものですが、彼は「プルミエ・ダンスール」という階級を完全に飛び越え、わずか20歳で最高位「エトワール」に任命されました。

マチューガニオ引退

マチューガニオは2025年3月1日、パレ・ガルニエパリ・オペラ座のダンサーを引退しました。
マチューガニオが選んだ「アデュー(引退)」の舞台は、ジョン・クランコ振付の傑作『オネーギン』でした。
この役作りにおいて、彼はシュツットガルト・バレエ団のリード・アンダーソンによる指導を受け、一般的な「冷徹で高慢な貴族」とは一線を画す、独自のオネーギン像を創り上げました。

マチューガニオが演じたのは、社交界の作法を完璧に身につけた「紳士」でありながら、その内面に空虚さと退屈を抱えた「未熟な青年」でした。
初対面のタチアーナに向ける穏やかな眼差しは、誰にも本質を見せないための蓋(ふた)のような振る舞い。
物語の最後、数年ぶりに再会したタチアーナに「やり直せるかもしれない」と一瞬の希望の笑みを浮かべ、そして拒絶されるシーン。
リード・アンダーソンの言葉によって広がった想像の世界が、マチューガニオの身体を通して見事に具現化されていました。

この舞台を観た観客の感想がその本質をとらえています。
「オリガもタチアーナより前に結婚しています。つまりオネーギンだけが数年前のあの日に取り残されたまま。マチューガニオのオネーギンは人間の弱さ儚さを強く表現しているように感じました。」
 
マチューガニオは、オペラ座のコミュニティを「家族」ではなく、あえて「大きな部族(Tribe)」と表現しています。
共に時間を過ごし、感情や過酷なストレスを共有し、ひとつの作品を作り上げる仲間や観客との親密な関係。
その強固な結びつきが最高潮に達したのは、終演後のことでした。
金色の紙吹雪が天井から降り注ぐ中、30分にも及ぶ異例のカーテンコールが繰り返されました。
舞台に立つ者も、客席で見守る者も、誰もがその瞬間に魔法がかかったような熱狂の中にいました。
これほどまでに長く、温かな拍手が鳴り止まなかったのは、彼が「部族」の一員として、どれほど誠実に舞台と向き合ってきたかの証と言えますね。

マチューガニオ 引退の理由とは?

マチューガニオの引退理由とは、定年制だったからです。

パリオペラ座バレエ団では、ダンサーたちは「42歳定年制」のゴールが見える中でダンサーとして活躍します。

バレエダンサーという職業は、あまりにも短命で、残酷なまでの美しさを孕んでいます。
世界最高峰のパリ・オペラ座バレエ団において、ダンサーたちは「42歳定年制」という厳格なタイムリミットを背負い、一瞬の輝きのために全人生を捧げます。

肉体の限界と戦い続け、絶頂期にその舞台を去らねばならない世界ですね。

マチューガニオの代表作とは?

マチューガニオの代表作は、ラコット振付『ラ・シルフィード』のジェームス役です。
ラコット版の「ラ・シルフィード』が代表作となったマチューガニオには。ラコットとの出会いがありました。
マチューガニオが深い敬意を抱く振付家ピエール・ラコットと、その妻ギレーヌ・テスマーは実は生粋のパリオペラ座バレエ団育ちではありません
フランス・バレエの伝統を守り抜いたにも関わらずラコットとテスマーは、「生粋のオペラ座育ち」ではありませんでした。
ラコットは一度退団して振付の道を選び、テスマーは外部のバレエ団を経てエトワールに迎えられるという異例の経歴を持っていました。
この「外部の風」を吹き込んだ二人が、失われたロマンティック・バレエの傑作を現代に蘇らせ、フランス・バレエの精神的な背骨を再構築しました。
マチューガニオがオーレリー・デュポンと共演したラコット振付『ラ・シルフィード』のジェームズ役は、彼の代表作となりました。

ラコットが自身の引退公演『パピヨン』で、マチューの母ドミニク・カルフーニをパートナーに指名したというエピソードも、時代を超えた芸術の継承を感じさせます。
「いつもお互いを驚かせ、決して失望させないこと。だからこそ愛し合う2人がここまで続いてきたの」

ギレーヌ・テスマーは映画『バレエに生きる~パリ・オペラ座のふたり~』の中でそう語っています。

このプロフェッショナルなパートナーシップこそが、オペラ座が誇る洗練されたスタイルの源流となったのです。
ラ・シルフィードもエレガントなバレエですが、そのプログラムを復活させた功績はやはりマチューガニオがいたからだと思います。

マチューガニオと柚香光?

2025年1月にマチューガニオスペシャルガラ ニューイヤーコンサーとが開催されました。

パリオペラ座バレエ団を引退するエトワール、マチューガニオ中心にガラ公演でした。
そこに、元宝塚歌劇団トップスターの柚香光がゲストとして出演しました。

A day in the sunという作品を二人で踊りました。
「ラ・ラ・ランド」の曲に合わせて踊るマチューガニオと柚香光はバレエの世界とエンターテイメントの世界がコラボしていく世界観でした。

クラシックバレエダンサーとダンスが得意な宝塚歌劇団の柚香光が顔合わせをするというので観劇に行ってきました。
観ながら、マチューガニオの身体能力の高さとエンターテイメントへと歩み寄るそのダンスの気高いまでの美しさに魅了されました。

マチューガニオの現在は?

マチューガニオ自身は、ダンサーを辞めていません。
それは、パリオペラ座バレエ団のアデュー公演の幕が閉じた後にマチューガニオが示した姿勢から読み取れます。
マチューガニオは「ダンスはこれからも人生の特別な存在であり続ける」と語り、前向きな姿勢を崩しません。
2026年5月にはパリの小劇場で、セリフとダンスを織り交ぜたひとり芝居『Le Rappel des Oiseaux』の上演をして、その表現活動は形を変えて続いていきます。

マチューガニオ引退後には、自然療法(ナチュロパシー)や、歴史好きを活かしたガイドの仕事に関心を寄せています。
自然療法(ナチュロパシー)に惹かれるのもわかります。

完璧な肉体を維持するために、ダンサーたちは毎日鏡と向き合い、厳しく自分を律し続けます。
鏡に映る自分を見つめ続けたダンサー人生だったと思います。
だからこそ、舞台で踊るマチューガニオの身体は乱れることもなく美しさとエレガントさを兼ね備えたダンサーなのです。

もしダンサーになっていなければ「動物行動学者」になりたかったという意外な面も持っています。
マルセイユの自宅では多くの動物に囲まれて育ち、バレエ学校時代も科学系の学習を並行して続けていたといいます。

そういう暮らしの中で自然療法に惹かれていくのわかる気がしますね。

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