岸恵子現在の住まいは?娘は?憧れの人?病気?岡本健一不倫?

フランス人と結婚をしてからも、日本で俳優として活躍した方がいます。
岸恵子は、松竹大船撮影所の研究生を経て、1951年に映画で俳優デビューし、1953年映画「君の名は」でヒロインを演じ、一躍国民的スターとなりました。
日仏合作映画「忘れえぬ慕情」でヒロインを演じた後に、フランス人監督イヴ・シャンピと1957に結婚し、渡仏しました。
40年余りパリに住み、帰国後も日仏を行き来しながら、俳優だけではなく分泌活動を続けた岸恵子の生涯を綴ります。

岸恵子 現在の住まいは?

2000年に日本に帰国し、横浜市横浜市・実家である白楽にある築80年の純日本式家屋で一人暮らしをしていました。

外から見ると、緑が豊かで静かな佇まいを持つ、女優が暮らすにふさわしい邸宅という印象です。ミモザの木が庭に植えられており、春先には黄色い花が咲き、自宅の景色に彩りを添えていたといいます。

純日本式家屋ということは、段差が多く廊下が狭く、畳の部屋が中心の古い様式の建物です。
現代の住宅と比べると、手すりはなく、浴室の入り口には大きな段差があり、廊下には鴨居(かもい)の凹凸があります。

いわゆるバリアフリーとはほど遠い環境ですが、岸惠子さんはリフォームを最小限にとどめ、日本の伝統的な住まいの姿を守り続けました。
岸惠子さんはその広さを活かして書斎を設け、執筆活動を続けていました。「古い家には古い家の美しさがある」という言葉が浮かぶほど、その家への愛着は深いものでした。

岸恵子、娘は?

1963年、一人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピが誕生しました。

出産後も子育てをしながら、日本からの依頼があると帰国し、映画出演を続けていました。
仕事の度に帰国すること19回にも及んだといいます。

この生活にシャンピ監督が不満を感じていたとも言われて、1975年に離婚しました。
娘の親権は岸恵子が持ったのです。

ところが、ここで大問題が起こります。
大事な娘なのに、岸恵子の戸籍に娘を入れることはできませんでした。
当時の日本の法律は、日本国籍を持つ父親の親権だけを認めていたのです。

当時を振り返って岸恵子は語っていました。

大事な娘を私の戸籍に記入することが、喫緊の課題です。

私が離婚したときの日本の法律は、私が父親でなく、母親だったために、娘に日本国籍をくれなかった! ひどい女性差別でしょう?

今さら法律が改正されても、時遅し。
娘は完璧なフランス人になって、家族もいるのに、それを捨てて日本人になれるかよ! と自伝で啖呵を切りました(笑)。

それで娘が大学を卒業して結婚するまで、私がフランスに残った。
「学費や養育費を払うのは父親の義務であるばかりではなく、権利でもある」といってくれた別れた夫の親切も退けて働くことを選びました。
これは日本人としての私の役にも立たない美意識と、自己満足だったかもしれないわね。

岸恵子は、この戸籍問題で娘の麻衣子を気遣い続けました。
その理由は、日本国籍のない麻衣子は、日本へ来る度に期限付きのヴィザを取らなければならなかったからです。

風邪でヴィザが2日切れていて、出入国審査の係員に、「今度こんなことをしたら刑務所行きだ」とまでいわれてしまったのです。
「いくら好きでも、日本が私の国でないことがわかった」と。愛する娘のこの言葉はつらかった。

孫は、ロスコーさんとジャクソンさんが誕生。
2022年8月、90歳を迎えた岸惠子さんはスペシャルトークショー「いまを生きる」に出演し、ステージに登場する際、岸恵子をエスコートしたのが孫のロスコーさんとジャクソンさんでした。

岸さんは観客に向けて2人を自身の孫だと紹介。
90歳という大きな節目の舞台を、娘から生まれた2人の孫が支える印象的な場面となりました。

憧れの人が岸恵子?

一躍人気俳優となった岸恵子は、フランスで映画撮影を通して出会ったイヴ・シャンピと結婚をして、娘にも恵まれて主にフランスで暮らします。

岸恵子が結婚した1957年当時は海外旅行すら自由化されていない時代でした。
国民的スターの座も、築き上げた名声も、安定した未来も手放して未知の世界へ飛び込む彼女の背中を押したのは、後に自身の哲学であり自伝のタイトルにもなった、あまりに潔い言葉でした。

パリの高級住宅街として有名なサン・ルイ島にある築400年の家に暮らしながら、仕事の度に帰国する生活が続けていました。

この強さの原点は1945年の横浜大空襲にあるといわれています。
12歳の少女だった彼女は、周囲の大人の制止を振り切り、避難していた防空壕を独り飛び出しました。

その直後、残された人々が爆風と土砂崩れの犠牲になる中、彼女は一本の松の木にしがみつき、燃え盛る我が家を見つめていました。
母は隣家に取り残された赤ん坊を助けるために走り去り、そこには文字通り彼女一人しかいませんでした。
日常が瓦礫と化す地獄絵図の中で、彼女は静かに、しかし決定的な決意を固めます。
自分を守ってくれるはずの「大人」も「社会」も、一瞬で崩れ去った絶望を骨身に刻んだといいます。
これ以降、彼女は、運命を他人に委ねない生き方を選びました。
この日の孤独な決断こそが、後の彼女の「自分を貫く」生き方の背骨となったのです。
「卵を割らなければ、オムレツは食べられない」
何かを壊し、元の形には戻れなくなるリスクを負わなければ、新しい人生という「オムレツ」は味わえない。
人生の転換期において、私たちはこの「卵を割る」覚悟をどれほど持てているでしょうか。
岸恵子は生涯を通じて、現状に安住することの危うさを私たちに問いかけていました。
女優という華やかな肩書きに留まらず、文筆家やジャーナリストとして活躍した彼女のバイタリティの源泉には、高校時代の数学教師から贈られた言葉がありました。
「人生は短い、好きなことをやりなさい。嫌いなものはやらなくていい」
この教えを生涯の指針とした彼女は、50歳を境に大きな変貌を遂げます。
他者に見られる人(女優)」から、自らの知性と感性で「現実の世界を見る人(表現者・記者)」へ。
2022年、90歳記念のトークショー。
岸さんは娘デルフィーヌ=麻衣子さんの息子、二人の孫ロスコーさんとジャクソンさんにエスコートされて登壇しました。
日仏の血を引く孫たちは、彼女が国境を越えて紡いできた人生の象徴でもありました。

岸恵子 病気?

生前に岸恵子が病気にり患したという情報は発表されていません。

亡くなった死因は、老衰ということでした。
高齢に伴い、カラダの様々な機能は徐々に衰え、自然に最後を迎えるということになります。

岸恵子の右手に麻痺があったという記載もあります。
ただ、執筆をあきらめることなく、指1本でパソコンをたたけるようになったともいわれています。

岸恵子、岡本健一不倫?

1990年のドラマ「水の女 その愛はエーゲ海に殺意を招く!」で岸恵子と岡本健一は共演したことがあります。

共演がきっかけに交流があるのではないかと考えられています。
2006年に放送された「岸恵子のとっておきフランス旅」というお正月番組で、岸恵子が岡本健一をフランスのパリやブルターニュ地方を案内されていました。

さらに、2017年7月「徹子の部屋」に岸恵子さんが出演された際には、パリの自宅を紹介しているVTRの中で、岸恵子の自宅を訪問中の岡本健一が映っていました。

岸恵子と岡本健一はフランスの自宅に遊びに行くほどの仲良しですが、不倫関係はなさそうです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました