大人気クッキー缶?原点は?フランス修行?カフェタナカ?闘病?卒業校へのオマージュ?サステナビリティ?

フランスのカフェ文化は、旅行に行ったことがなくても写真などで観ることができます。
カフェの娘として生まれ、父のコーヒーに合うフランス菓子を学びたい思いで渡仏したパティシェがいます。
それが、カフェタナカ代表・グランシェフパティシエ田中千尋です。
パリを思わせるカフェ、そして缶が大人気のクッキー、フランスで学んで感じた文化を名古屋の地に根付かせた功績をご紹介します。

大人気のクッキー缶とは?

クッキーもさることながら、クッキーが詰められた缶が大人気なのは、グランシェフ パティシエ・田中千尋が手がける「RÉGAL DE CHIHIRO (レガル・ド・チヒロ)」という店舗で販売されています。

洗練されたディープグリーンに、黄金の文字が浮かび上がるその缶は、いまや日本のガストロノミー界において「最も手に入れることが難しい工芸品」の一つに数えられます。

パティスリー「カフェタナカ」が手掛ける「レガル・ド・チヒロ(RÉGAL DE CHIHIRO)」は、ネット販売を開始すれば瞬く間に予定数が尽き、店頭には開店前から熱狂的な列が生まれる「幻のクッキー缶」です。
缶もめちゃくちゃキュートですが、バターの芳醇な香りや、口の中でほどける繊細な食感といった「味」の良さだけではなく、蓋を開けた瞬間に美しさにも出会えます。
通称“シュクレ缶”と呼ばれる、7種類の味わいが詰まったクッキー缶は、シリーズの中でも初めに手がけた商品だそうです。
ひと缶に詰めた味わいをコース料理のように楽しんでもらいたいと、7種の取り合わせを考案しました。
粉、砂糖、バター、 このシンプルな素材から生まれるクッキーは、フランス伝統菓子の基本であり、その一枚に自由な発想を描くことができる奥深いお菓子です。

味噌サブレ:日本の発酵美学がバターと出会い、深いコクと余韻を生む逸品。
パレ・のり塩&セザム:潮の香りとゴマの香ばしさが、和の情緒を醸し出す。
松の実&ぶぶあられのフロランタン:カリッとした食感の後に、和のエッセンスが弾ける進化系。ヴィエノワ・ポアブル:ブラックペッパーが凛と効いた、お酒を嗜む大人のための味。
クラッカー・バジルトマト:ハーブの香りが立ち上り、上質なアペリティフを予感させる。
クラッカー・とうもろこし:素材そのものが持つ、ほのかな甘みを繊細に引き出した一枚。

クッキー缶好きとしては、カフェタナカが手掛ける「レガル・ド・チヒロ(RÉGAL DE CHIHIRO)」は憧れです。
このブログでも、フランス菓子のクッキーを取り上げた章では缶についても書いていますのでお読みくださいね。

田中千尋の原点とは?

カフェタナカそしてパティシェである田中千尋の両親が1963年に自家焙煎のコーヒー店『コーヒータナカ』(当初は喫茶店「珈琲田中」)を始めました。
開店当初は当時は男性のお客様がタバコを吸いながら、コーヒーを飲むお店でした。店内は、いつもタバコの煙がモクモクしていましたよ」と田中さんは言う。

名古屋の喫茶店といえば、サービス満点のモーニングセットが有名です。
田中千尋によればここには独自の“喫茶店文化”があると田中さんは言います。
「名古屋の人にとって喫茶店は、自宅の応接間と同じで、朝ごはんは、喫茶店のモーニングを食べに行く。家にお客様が訪ねてくると、『じゃ、いこか?』と近所の喫茶店に行くんですよ」

カフェタナカのグランシェフの田中千尋は、常連客が毎日決まった時間に訪れ、静かに一杯のコーヒーを慈しむ「名古屋らしい温かな喫茶文化」の中で感性を育みました。
本場のエスプリを求めて21歳で単身渡仏し、パリの「リッツ・エスコフィエ」で学び、「トゥールダルジャン」や「フォション」といった最高峰の名店で研鑽を積んだ彼女を突き動かしていたのは、至極純粋な、娘としての矜持でした。
「父のコーヒーに合うお菓子をつくりたい」という思いでした。
帰国後、父の店の一角で始まったお菓子作りは、フランスの伝統技術と名古屋のティータイム文化を融合させるという、独自の進化を遂げます。

田中千尋のフランス修行時代?

1992年に渡仏し、最初の一ヶ月だけ語学学校に通い、、製菓学校「リッツ・エスコフィエ」に入りました。

短大で食物を専攻し卒業した後、1990年から東京のフランス料理学校「ル・コルドン・ブルー」日本校の製菓コースに名古屋から新幹線を使ったり友人の家に泊まったりして通学しました。

当時「ル・コルドン・ブルー」はブームで、私の友人にも「花嫁修業のため」と通っていた人も多かったが、田中さんの場合は花嫁修業では終わらなかったのです。

フランス時代は多くのことを吸収し続けた修業時代だったようです。

「マルシェ(市場)に行けば、色とりどりのフルーツが山のように積んであります。フランスでは、フルーツそのものがとても力強いんですよ。そういった季節の素材を生かしたタルトが、またおいしい。当時の日本では、素材を生かしたお菓子作りが弱い、と感じました」

「マカロン」も、90年代のパリで初めて知りました。
アーモンドの粉を使うのが新鮮で、日本ではカリフォルニア産のアーモンド粉が主流でした。
スペイン産のアーモンド粉は、少しビターな大人っぽい味が出るし、焼きこむほど「うま味」が増すという。

「粉、卵、バターなどの乳製品、そしてフルーツと、素材が日本とは全く違って、焼き菓子はしっかり焼きこめば素材のハーモニーが口いっぱいに広がるのです」と田中千尋はいいます。

「タルトのおいしさは、焼きこむほど季節のフルーツの個性とアーモンドが一体となっていくところ。本当に、お菓子を作っているだけでうれしくなってきてしまうんですよ」

「リッツ・エスコフィエ」卒業後は、トゥール・ダルジャンなどのレストランや、フォションや町の菓子屋で、修業の日々が続きました。
徐々に知り合いもでき、日本人は真面目なので、雇ってくれる店も見つけやすいといいます。

毎日早朝5時から始まる厳しい仕事で、3食賄い付きでも、大抵は無給かお小遣い程度の給料しかもらえない世界です。
今は女性の菓子職人も増えたが、そもそも男性中心の世界で、日本人の女性が修業をするのは、並大抵のことではなかったともいえそうです。

「厨房に入る時は、“女”を忘れるべきですね。女であることを相手に感じさせないようにしていました」と田中さんは言う。30キロの粉の袋、巨大なバターの塊、ずっしり重い果物のケース…。重いものも率先して運んだ。女性だからと躊躇していては、先に進めない。トイレも更衣室も、女性専用はなく男性と一緒だった。

体つきが、渡仏前の2倍くらいたくましくなったという田中千尋です。

職人の世界は、先輩を見て覚えるのが基本。言葉の壁もある。常に食らいつくように先輩の手元を見て、ひとつでも多くを学ぼうと努力したおかげで注意力と集中力がアップしたといいます。

フランスの職場は「やる気があれば、任せてくれる」という実力本位の世界で、チャンスは誰にも平等だったといいます。
借りていた部屋には寝に帰るだけという生活だったが、これ以上ないほど充実していました。

珈琲田中からカフェタナカへ

東京で1年ほど働いた後、1996年に名古屋に戻った田中千尋は、「コーヒータナカ」を「カフェタナカ」へとリニューアルする仕事に着手した。
パリで五感を精いっぱい使って吸収したことを、珈琲田中に生かす時が来て、今日のカフェタナカが誕生しました。

田中千尋は、1992年、誰にも相談せずにパリ行きを決めました。
資金はアルバイトでためた貯金だけだったと妹の千寿さんは、当時を振り返って笑います。
「姉がフランスに行くと決めた時、家族が何か言う前に、家からいなくなっていました」。

「思い立ったら一直線」なタイプだともいえる田中千尋の行動力ですね。
原動力は、「東京もパリも、名古屋から出るなら一緒」というかなり強引な理由だったそうです。

渡仏を決めてから、フランス語の勉強を始めたともいいます。
渡仏を決めてから。「マスターする時間もなく、行きの飛行機で『アン・ドゥ・トロア』…と数の復習をしていたほどです」と田中千尋は振返ります。
パリ到着後、1カ月語学学校に通い、製菓学校「リッツ・エスコフィエ」に入りました。
授業は全部フランス語で、製菓についても一定レベル以上の技術のある生徒しか取らない学校です。

「パリに行ったら、どんどん楽しくなっていきました。フランスにはお菓子の歴史と伝統があり、それが時代とともに進化しているのです。パリにはそのすべてがありました」

名古屋の店舗には、昔ながらの面影を残しつつ店内にテラス席を作りました。
いわゆるパリのカフェでよく見かけたテラス席も、当時の名古屋ではまだ“走り”だったでしょうね。

喫茶店の娘だった田中千尋は、パリのカフェ文化にも魅せられました。
「日常の中にカフェがあることも、私がパリに親しみを感じた理由の1つでした。パリでは多くの人が、長い時間をカフェで過ごします。様々な人がいろいろな目的でやってきて、出会いがあり文化が生まれる。…父が喫茶店でやろうとしていたことと、似ていたのです」

闘病を経て基本へ回帰

田中千尋は1年半の闘病生活を送りました。

ただ、病名などは発表されていません。

厨房を離れざるを得なかった日々の中で彼女が辿り着いたのは、自らを支える120名のスタッフへの感謝と、極めてシンプルな真理でした。

今日、私たちが手にするクッキーの背景には、田中シェフの個人的な葛藤と深化がありました。

それは、気候変動により本物の素材が希少になる中、生産者と手を取り合い、収穫のタイミングに合わせてものづくりを組み替えることにつながりました。
自然の摂理に寄り添う「本物のものづくり」への回帰です。

田中千尋が贈る卒業校へのオマージュ

田中千尋が自身の母校である金城学院へ捧げたオマージュとは「金城学院オリジナル缶」を創り上げました。

名古屋の名門・金城学院は、1921年に日本で初めてセーラー服を制服に採用した歴史を持ちます。
そのモデルは、アメリカ人宣教師ローガン氏の娘が着ていた服だったという知的な背景があります。

制服制定100周年を記念して誕生した「金城学院オリジナル缶」は、田中シェフと、彼女の恩師である長屋頼子校長が構想段階から心を通わせ、創り上げたものです、
制服の濃紺をイメージした艶消しの缶には、胸元の校章バッジのように誇らしくエンブレムが輝きます。

ビスキュイ・ブール・アマンド:アーモンドの風味豊かな、伝統の厚焼きクッキー。
ビスキュイ・ブール・カフェショコラ:サントメ島産カカオが香る、父のコーヒーへの想いを重ねた一枚。
ビスキュイ・ブール・ショコラサントメ:自社農園の恵みが凝縮された、濃厚なショコラの誘惑。

卒業生としての愛と、受け継がれる伝統。この一缶は、時代を超えて輝き続ける女性たちの象徴なのです。

田中千尋が取組むサステナビリティとは?

2019年、田中シェフは理想のカカオを求めて西アフリカのサントメ島へ赴き、1ヘクタールの放棄地を再生させた「カフェタナカ希望の有機カカオ農園」をスタートさせました。
カフェタナカのグランパティシェである田中千尋は、お菓子作りに欠かせない食材選びを通して、社会課題とも出会いました。

お菓子づくりに欠かせない良質な食材を探し、作り手たちを訪ねて世界各国を巡ってきました。
フランスやイタリア、スペインなど、伝統的な製法で高品質な素材をつくる生産者たちと顔が見える関係を築いていくなかで、カカオやバニラの辺境といわれる生産地には、治安の問題から、長年、渡航が叶いませんでした。

念願叶って南米やアフリカ諸島へも訪れたことで、貧困や貧富の格差など多くの社会問題を知ることになりました。

2019年にアフリカ大陸の西側にあるサントメ島(サントメ・プリンシペ民主共和国)にカカオ農園を開設しました。
味も香りも素晴らしい、原種に近い良質なカカオが生産されていました。
一時は世界最大の生産量を誇っていたにも関わらず、歴史的な背景から、農園の多くが放置され、衰退の一途を辿っていました。

カフェタナカは、「農園の再生」「女性支援」のふたつの柱を掲げて、「サントメプロジェクト」を始動しました。
良質なカカオの生産と、現地の安定的な雇用を生み出すことに取り組んでいます。

単なる素材の買い付けではありません。
現地の女性リーダー二人に農園管理を委ね、カカオが収穫できない時期でも収入が得られるよう現地の食材を用いた製菓技術を伝授するなど、女性の自立と地位向上を草の根から支援しています。

この活動は結実し、2025年大阪・関西万博では「サントメ・プリンシペ民主共和国」との共同出展という形で世界に披露されました。

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