日本で芸術活動をしていましたが、さらなる高みを求めて単身フランスへ渡った版画家います。
その名前は、長谷川潔といいます。
当初は木版画に取組んでいましたが、西洋の版画技術を学ぶためのことでした。
長谷川潔は、写真に脅かされつつあった版画のすたれた技法を独自で研究し続けました。
そして、長谷川潔が生み出した漆黒の版画はパリで大変人気がありました。
長谷川潔という版画家の作品の特徴、功績、そして長谷川潔の作品を支えたパートナーなど生涯をご紹介します。
長谷川潔とは?
長谷川潔は、1891年(明治24)現在の横浜市西区御所山に生まれました。
10歳までこの地で過ごしました。
美術の道を志しました。
青年期には創作版画として主に木版画を制作し、『聖盃』や『仮面』など文芸雑誌の装丁を手がけました。
銅版画の技術を学ぶため1918年(大正7)27歳で渡仏しました。
長谷川潔は、さまざまな銅版画の技法を独学で習得しました。
長谷川潔の版画作品には、西洋の版画技法と日本的な美意識の融合を観て取ることができます
当時廃れていた古典技法のマニエール・ノワール(メゾチント)を再興しました。
漆黒の地に小鳥や草花、身近な品々を描いた静物画は、長谷川の深い精神性を伝えています。
1980年(昭和55)に亡くなりました。
最後まで、パリに留まり、版画家として活躍しました。
長谷川潔はパリで人気?
作品の背景に緻密なレース模様が浮かんでいます。
「アクアチント」という技法を用い、本物のレースを銅板に直接押し当ててその繊維の「肌理」を転写する独創的な手法が用いられています。
「布の肌理がそのまま現出したような繊細な表現」は、版を「刻む」のではなく「質感を定着させる」という新たな領域を切り拓きました。
長谷川潔が乗り越えた困難とは?
長谷川潔は一時は「敵性外国人」として収容所に送られたのです。
そんな絶望の淵にいたある日、彼は神秘的な体験をします。
この体験を境に、長谷川潔はありふれた草木にも人間と同じ魂が宿っており、万物は本質的に一つであるという真理を悟りました。
緻密に刻まれた樹皮や枝ぶりには、対象の内に宿る神性へ近づこうとする深い精神性が漂っています。
東洋的な万物への畏敬の念が、西洋の技法と完璧に融合した瞬間でした。
長谷川潔の版画の特徴とは?
長谷川潔の作品は多くの鑑賞者が感じるのは「知っているようで、実は全然知らなかった」という新鮮な衝撃です。
単なる色としての黒ではなく、万物の生命が宿る、豊穣で神秘的な「漆黒」の世界です。
長谷川潔が刻んだ黒は、光を吸い込み、同時に無限の広がりを感じさせる「宇宙」そのものでした。
その孤高の歩みと技法への狂気的な探求心が鑑賞する側の心を揺さぶり続けています。
長谷川潔の功績とは?
17世紀に考案されたこの古典技法は、非常に手間がかかるため、写真技術の発展とともに一度は歴史の表舞台から消えかけていました。
長谷川潔は「ベルソー(目立て道具)」を用いて版全体に無数の微細な傷をつけ、そこを「バーニッシャー(磨き道具)」で削り、磨き上げることで光を描き出します。
版画を緻密な「肌理(きめ)の芸術」へと昇華させたのです。
長谷川潔が発見したものとは?
そのきっかけが
フランス語訳された『竹取物語』の挿絵本に関わったことです。長谷川潔はこのプロジェクトに、実に7年という歳月を費やしました。
日本の古典を西洋の技法で翻訳し、現代の「モダンなデザイン」として再生させた傑作であり、パリの地で彼が示した自国文化への誇りの証でした。
最高級の和紙「鳥の子紙」を特注し、そのクリーム色の質感にこだわる徹底した美意識。
文字の図案から余白の設計まで、トータルにデザインされたモダンな構成。
展示会場では和紙の壁面が、まるで「かぐや姫が生まれた竹の内部」のような空間を創出。
長谷川潔の作品のパートナーとは?
版画制作において「刷り」の技術は作品の出来を左右する不可欠な要素です。
長谷川潔とカミーユ・ケネヴィルは1920年代から半世紀近く、深い信頼関係に基づく共同制作を続けました。
長谷川潔にとってカミーユ・ケネヴィルがいかに代えがたいパートナーであったかを物語っています。
その静謐な表情には、長年のパートナーへの鎮魂と、自らの芸術人生の総括が込められているように感じられてなりません。
長谷川潔の晩年は?
一度も日本に帰国することはありませんでした。
フランスからはレジオンドヌール勲章、日本からは勲三等瑞宝章を授与されるなど、その功績は国際的に高く評価されました
長谷川潔は「大宇宙の深遠な理」という普遍的な真理に向いていました。

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