フランスで活躍した日本人の活動実績や現在の様子などを紹介しいますが、今回は明治時代にフランスで活躍した日本人画家レオナールフジタ(藤田嗣治)を取り上げます。
レオナールフジタは「乳白色」の肌を表現しエコール・ド・パリの頂点に立った日本人です。
彼は、セルフブランディングにも長けていて、おかっぱ頭に丸メガネの姿でパリの芸術界に君臨していました。
レオナールフジタは「乳白色」の肌を表現しエコール・ド・パリの頂点に立った日本人です。
彼は、セルフブランディングにも長けていて、おかっぱ頭に丸メガネの姿でパリの芸術界に君臨していました。
ここでは、二つの名前の由来や活動実績、フランスに帰化した理由などをご紹介します。
次は、彼の作品を深い視点で見つめること間違いなしですので、最後までお付き合いください。
レオナールフジタ(藤田嗣治)とは?
1920年代、狂騒の時代のパリ。モンパルナスの喧騒の中に、誰よりも強烈な光を放つ日本人藤田嗣治(レオナールフジタ)がいました。
「乳白色の肌」と称えられる独自の裸婦像でエコール・ド・パリの頂点に立ちました。
没後50年を過ぎ、世界中で再び彼の回顧展が熱狂を呼ぶ理由を知りたいですね。
藤田嗣治(レオナールフジタ)の人生は、絶え間ない自己変革とアイデンティティとの格闘の連続でした。
ある時はパリの寵児として、ある時は愛国的な画家として、そして最後は神に仕えるレオナールとして人生を息生き続けました。
ある時はパリの寵児として、ある時は愛国的な画家として、そして最後は神に仕えるレオナールとして人生を息生き続けました。
彼は常に、「世界に日本人として生きたい」と願いながら、その純粋さゆえに時代に翻弄され続けました。
藤田 嗣治
1886年11月27日
日本生まれのフランス画家、彫刻家
フランスに帰化後の洗礼名はレオナール=ツグハル・フジタ
第一次世界大戦前より、フランスのパリで活動
日本画の技法を油彩画に取り入れて、独自の「乳白色の肌」と呼ばれ西洋画壇の絶賛を浴びた。
エコール・ド・パリの代表的な画家。
レオナールフジタ、パリでの活躍・乳白色の肌とは
1920年代、狂騒の時代のパリ、モンパルナスの喧騒の中に、誰よりも強烈な光を放つ日本人藤田嗣治(レオナール・フジタ)が、「乳白色の肌」と称えられる独自の裸婦像でエコール・ド・パリの頂点に立ちました。
藤田嗣治の代名詞である「乳白色の肌」。
その陶器のように滑らかで、内側から発光するような質感は、長年「門外不出」の秘密とされてきました。
近年の科学的調査により乳白色の正体が解き明かされました。
その陶器のように滑らかで、内側から発光するような質感は、長年「門外不出」の秘密とされてきました。
近年の科学的調査により乳白色の正体が解き明かされました。
藤田嗣治(レオナールフジタ)は、油彩特有の粘り気や光沢を嫌いました。
彼が求めたのは、日本の伝統的な美意識に通じる「艶消し(マット)」の質感です。
そこで彼が秘密の素材として選んだのが、ベビーパウダーに含まれるタルクやカオリンといった顔料でした。これを下地に混ぜると、油分を抑えた独特の滑らかさを生み出しました。
さらに肌の深い透明感を出すために赤や青に発光する蛍光顔料を使い分けていました。
この使い分けにより、生身の人間が持つ「生きた皮膚」の奥行きを表現することに成功しました。
彼が求めたのは、日本の伝統的な美意識に通じる「艶消し(マット)」の質感です。
そこで彼が秘密の素材として選んだのが、ベビーパウダーに含まれるタルクやカオリンといった顔料でした。これを下地に混ぜると、油分を抑えた独特の滑らかさを生み出しました。
さらに肌の深い透明感を出すために赤や青に発光する蛍光顔料を使い分けていました。
この使い分けにより、生身の人間が持つ「生きた皮膚」の奥行きを表現することに成功しました。
この「油分を抑え、光をコントロールして透明感を作る」という発想は、現代の最高峰のメイク手法にも通じます。
「世界の絶賛を浴びた白の裏技」であり、墨と面相筆を用いた伝統技法を油彩へと昇華させました。
「世界の絶賛を浴びた白の裏技」であり、墨と面相筆を用いた伝統技法を油彩へと昇華させました。
「乳白色の肌」に宿る悦楽的なエロス、そして静謐な「猫」。
藤田嗣治(レオナール・フジタ)という名から私たちが想起するのは、狂騒の時代パリスの寵児として、洗練されたサロンの最中心に君臨する華やかな画家の姿でしょう。その輝かしい「乳白色」の裏側には、泥と血にまみれた「凄惨な戦争画」という、目を背けたくなるような深淵が横たわっています。
藤田嗣治(レオナール・フジタ)という名から私たちが想起するのは、狂騒の時代パリスの寵児として、洗練されたサロンの最中心に君臨する華やかな画家の姿でしょう。その輝かしい「乳白色」の裏側には、泥と血にまみれた「凄惨な戦争画」という、目を背けたくなるような深淵が横たわっています。
レオナールフジタ、セルフプロデュース?
藤田嗣治(レオナールフジタ)はモンパルナスの街角に立つ自分を、一つの完成された「作品」として演出したといわれています。
藤田嗣治(レオナールフジタ)は、灰色の瓦礫の街に、かつてパリで陶酔した美の迷宮を現出させました。この舞台美術への情熱は、単なる職能の誇示ではありません。
自身のアイデンティティを世界に刻み込もうとする、彼の壮大なセルフプロデュースの一環でもあったのです。
おかっぱ頭に丸眼鏡という記号的なアイコンを纏った彼は、間違いなく当時「世界で最も有名な日本人」でした。
自らをアイコン化して世界と対峙し、技法を研究し尽くし、どんな批判の中でも筆を置かなかったその生き様は、多様な価値観の中で自分を見失いそうになる今に必要なスタンスかもしれません。
自らをアイコン化して世界と対峙し、技法を研究し尽くし、どんな批判の中でも筆を置かなかったその生き様は、多様な価値観の中で自分を見失いそうになる今に必要なスタンスかもしれません。
当時、パリには500人を超える日本人画家がいたといわれています。
その中で真に成功を収めたのは、藤田嗣治(レオナールフジタ)一人でだけした。
彼が成功したのは、画力もさることながら、類稀なる「ブランド戦略」があったからです。
その中で真に成功を収めたのは、藤田嗣治(レオナールフジタ)一人でだけした。
彼が成功したのは、画力もさることながら、類稀なる「ブランド戦略」があったからです。
当時の世界的な人気者であったチャーリー・チャップリンから「ちょび髭」を、ハロルド・ロイドから「丸眼鏡」を拝借し、そこに東洋人の漆黒の髪を最も際立たせる「おかっぱ頭」を組み合わせました。
自ら服まで縫い上げる徹底した洒落者ぶりは、人々の脳裏に「レオナールフジタ」という記号を焼き付けました。
自ら服まで縫い上げる徹底した洒落者ぶりは、人々の脳裏に「レオナールフジタ」という記号を焼き付けました。
この奇抜な風貌は、単なる目立ちたがり屋というより、世界で勝負するための、強烈な「負けず嫌い」な精神性が選ばせた武装だったのです。
彼は後に、この戦略について事もなげにこう語っています。
彼は後に、この戦略について事もなげにこう語っています。
「これで成功しないはずがないと思ったが、果たして成功したというのである」
レオナールフジタが改名した理由は?
レオナールフジタは第二次世界大戦中、日本で戦争記録画(戦争画)の制作に力を注ぎ、国に貢献しようとしましたが、終戦後は日本の画壇は手のひらを返し、芸術家としての戦争責任を彼一人に負わせようとしました。
レオナールフジタが制作した戦争記録画(戦争画)には不思議なエピソードが残されています。
日本軍最初の玉砕を描いた『アッツ島玉砕』は、美術史においても類を見ない「神話的」な現象を巻き起こしました。
日本軍最初の玉砕を描いた『アッツ島玉砕』は、美術史においても類を見ない「神話的」な現象を巻き起こしました。
折り重なる兵士の亡骸、絶望的な白兵戦。
レオナールフジタは現地を訪れることなく、想像力だけでこの地獄絵図を描き切りました。
1944年に青森で行われた巡回展で、驚くべき光景が現出します。
凄惨な描写を前にして、観客たちは悲鳴を上げる代わりに、静かに画の前で膝をつき、賽銭を投げ、祈りを捧げたのです。
レオナールフジタは現地を訪れることなく、想像力だけでこの地獄絵図を描き切りました。
1944年に青森で行われた巡回展で、驚くべき光景が現出します。
凄惨な描写を前にして、観客たちは悲鳴を上げる代わりに、静かに画の前で膝をつき、賽銭を投げ、祈りを捧げたのです。
舞台演出家の佐野勝也氏は、藤田の描く凄惨な闘争場面が、実は「ダンス視点」や「演劇的なドラマ視点」で構成されているという鋭い仮説を提示しています。
兵士の指先、肩の筋肉の隆起、関節の躍動感。それらは舞踊的な要素を内包し、二次元の静寂を食い破るようなダイナミズムを湛えています。この凄まじい動的描写こそが、残酷さを壮大な叙事詩へと昇華させているのです。
戦後、画家・野見山暁治は、画中の兵士たちの顔がふっと笑いかけたという「御霊還る」のエピソードを記しています。
藤田のリアリズムは、残酷さを超えて、死者を弔う「聖なる場」へと変貌を遂げたのかもしれません。
藤田は若き日のパリで、モダン・ダンスの祖イサドラ・ダンカンの兄、レイモンド・ダンカンが主宰するアカデミーに通い、自らダンスを習得していました。
「ただ戦争記録画後半、《アッツ島玉砕》《血戦ガダルカナル》に代表されるところの戦争における死を賭した人間の闘争を描いたことは、人体を動的に生々しく描写する点において、戦後《優美神》におけるダンス視点に立つ動的描写を記憶のなかから呼び覚ます状態を、無意識のうちに整えたといえるかもしれない」 (佐野勝也『フジタの白鳥 画家 藤田嗣治の舞台美術』より)
戦中の協力者として追及されることになり、こうした祖国の裏切りや美術界の態度に深い悲しみと絶望を感じ、日本を離れる決意をします。
こうして日本を見限り、1950年に再びパリへと渡ったレオナールフジタは、フランス国籍を取得して帰化します。そして、ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、心から敬愛する「レオナルド・ダ・ヴィンチ」にちなんだ洗礼名「レオナール」を授かりました。
こうして日本を見限り、1950年に再びパリへと渡ったレオナールフジタは、フランス国籍を取得して帰化します。そして、ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、心から敬愛する「レオナルド・ダ・ヴィンチ」にちなんだ洗礼名「レオナール」を授かりました。
洗礼を受けて「レオナールフジタ」となり、キリスト教徒として熱心に宗教画を制作するようになっていきます。
レオナールフジタの晩年はランス?
晩年のレオナールフジタはシャンパーニュの名門マネ社の敷地内に建設された「平和の聖母礼拝堂(フジタ礼拝堂)」の内壁にフレスコ画を完成させました。
第二次世界大戦中に戦争画を描いた藤田嗣治は、戦後に画壇から戦争責任を追及され、深い失望感に襲われた藤田嗣治は再びフランスを目指します。
「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」「私は日本に捨てられた」
「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」「私は日本に捨てられた」
このメッセージは、日本という祖国への決別宣言だったのです。
フランスに帰化した彼は、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチにちなんだ「レオナール」という洗礼名を受け、カトリックへと改宗します。
晩年の彼を支えたのは、シャンパーニュの名門「G.H.マム」の総裁ルネ・ラルーとの深い友情でした。
マム社の敷地内に建設された「平和の聖母礼拝堂(フジタ礼拝堂)」こそ、彼の最後の情熱の結晶です。
晩年の彼を支えたのは、シャンパーニュの名門「G.H.マム」の総裁ルネ・ラルーとの深い友情でした。
マム社の敷地内に建設された「平和の聖母礼拝堂(フジタ礼拝堂)」こそ、彼の最後の情熱の結晶です。
自ら設計し、80歳近い体で内壁にフレスコ画を描き上げたその空間は、もはや国籍や時代を超えた「祈り」そのものでした。
今なおマム社には、彼に捧げられた最高級シャンパーニュ「RSRV」が眠っています。
今なおマム社には、彼に捧げられた最高級シャンパーニュ「RSRV」が眠っています。
昨年の夏に軽井沢の美術館で、この宗教画を観ました。
描き続けた宗教画によって、レオナールフジタは心の平安を見出したと感じました。
描き続けた宗教画によって、レオナールフジタは心の平安を見出したと感じました。

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