シャルル・フレデリック・ウォルトとは、オートクチュールの父?デザイナー生みの親とは?ランウェイ生みの親?功績は?女性を解放?現在は?

フランスといえば、モードの国というイメージがありますが、今日のファッションの礎を築いたのはイギリス人でした。
そのイギリス人の名前は、シャルル・フレデリック・ウォルトといいます。
それまでのファッションは複製をするだけの存在でしたが、創造性とビジネスを組合わせた芸術の世界へと導きました。
芸術にとどまらず、「オートクチュールの父」と称されるシャルル・フレデリック・ウォルトが、現代ファッションのルールを作り上げていったメゾン、デザイン、ライセンス販売などに至る道をご紹介します。

シャルル・フレデリック・ウォルトとは

現在のフランスのモードの基礎を作ったシャルル・フレデリック・ウォルトはイギリス生まれのイギリス人でした。

シャルル・フレデリック・ウォルトは1825年、イギリスのリンカンシャーで生まれました。
イギリス本国ではチャールズ・フレデリック・ワース(またはリチャード・ワース)と呼ばれていたのです。

弁護士の家系という由緒ある血筋に生まれました。
ところが、彼の若人生は決して平坦ではありませんでした。
それは、父の酒癖によって家計は困窮していたからです。
12歳でロンドンの布地店へ奉公に出されます。
その後、王室御用達の絹織物商「ルイス&アレンビー」で働きました。
この体験こそが、イギリスの工業化の波を最前線で目撃したことになるのです。
この「効率的な生産管理」という英国的な視点こそが、後にフランスで結実するオートクチュール・システムの種となったのです。
当時のヨーロッパでは、メンズウェアはイギリスが先行していました。
一方で、レディースウェアの本場はあくまでパリだったのです。

シャルル・フレデリック・ウォルトは、自らがファッション界にチャレンジするために20歳でフランスへ渡りました。
当初は言葉の壁や国籍の壁に阻まれ、「よそ者」として不遇の時代を過ごします。
そのチャレンジ精神は燃え続けていたのです。

シャルル・フレデリック・ウォルトはオートクチュールの父?

シャルル・フレデリック・ウォルトはクチュールの組合を創設しました。

クチュールとは、フランス語で「仕立て、縫製」を意味します。
一般的には、レディス服を作る仕立業、注文服店のことを指します。
オート・クチュールは高級衣装店を表します。

1868年、シャルル・フレデリック・ウォルトは現在の「パリ・クチュール組合」の前身である「フランス・クチュール組合」を創設しました。
この組合設立がきっかけとなり、デザインのコピー防止や業界のルール整備を行い、フランス・ファッションを「国を代表する知財産業」へと押し上げました。

シャルル・フレデリック・ウォルトがこのプラットフォーム整備したことで、パリは150年以上にわたり世界のモードの中心地であり続けています。

シャルル・フレデリック・ウォルトが築いたオートクチュールの精神が業界全体の「プラットフォーム」を通して、今も続いているのです。

シャルル・フレデリック・ウォルトはデザイナー生みの親とは?

シャルル・フレデリック・ウォルトは、「デザイナー」という職業を生み出した人です。

シャルル・フレデリック・ウォルトは「デザイナー」を職種として定義しました。
1847年、彼はパリの高級絹織物店「ガシュラン」でキャリアをスタートさせました。
当時は、仕立屋という職種は顧客の要望をそのまま形にする職人にすぎませんでした。
つまりは「御用聞き」の立場を超えることはありませんでした。

しかし、シャルル・フレデリック・ウォルトはこの力関係を劇的に逆転させたのです。
その方法が画期的でした。
シャルル・フレデリック・ウォルトは自らがデザインした服をあらかじめ用意しました。
いわば、商品見本を顧客に提示して注文を取るという仕組みを考えました。
つまりは、現代のクリエイティブ・ビジネスの原型を確立したともいえますね。

「デザインを仕立て屋が考えるという『デザイナー』としての役割をシャルル・フレデリック・ウォルトが成立させました。
主導権は、顧客にゆだねることはしませんでした。

自らの感性を「提案」し、価値を創出する姿勢を形にしました。
単なる日用品である衣服が、デザイナーの署名(ブランド)を冠した表現媒体へと進化を遂げました。
シャルル・フレデリック・ウォルト自身がデザインしたドレスの型があります。
ひとつは1866年に発表した継ぎ目のない優雅な曲線美を再現したプリンセス・ラインです。
もうひとつは、時代を先取りするフォルム、チュニック・モードとバッスル・スタイルでした。

シャルル・フレデリック・ウォルトはランウェイ生みの親?

シャルル・フレデリック・ウォルトは世界で初めて「生きたモデル」に服を着せたのです。

現代のランウェイを彩る「モデル」という職業も、シャルル・フレデリック・ウォルトの独創的なアイデアから生まれました。
それまでは、服の展示にはマネキンが使われていました。
シャルル・フレデリック・ウォルトは生きた人間に服を着せて披露する「マヌカン」の手法を創案しました。
最初のモデルを務めたのはシャルル・フレデリック・ウォルトの妻、マリ・ヴェルネでした。
「ガシュラン」の売り子であったマリ・ヴェルネは夫の作品を身に纏い、優雅に動く姿を魅せました。
マネキンには出せない「服の生命感」をお客様に伝えました。

1858年にスウェーデン出身のボベルグとシャルル・フレデリック・ウォルトが共同でメゾン「ワース・エ・ボベルグ」を設立しました。
その後、このシステムをさらに高度化させます。

「年4回のコレクション」という発表サイクルをまずは確立しました。
こうすることで、布地の仕入れ、アトリエでの製作、専属モデルによる披露までの一連の流れが出来上がりました。
ファッションが、経営と創作を統合した効率的な仕組みが構築されました。

このロールモデルは現在も続くモード界の基本となりました。

シャルル・フレデリック・ウォルトの功績は?

このほかにも、シャルル・フレデリック・ウォルトの功績が残されていて、フランスの絹織物の復権とライセンス販売がそうです。

宮廷向けの特注品製作をしていました。
ナポレオン3世の皇后ウジェニーという最強の「インフルエンサー」との出会いでした。
オーストリア大使夫人の紹介でウジェニー皇后の信頼を勝ち得たシャルル・フレデリック・ウォルトは、宮廷御用達のクチュリエとして君臨します。

さらに「ジェット(黒玉)」の装飾や繊細な「コード刺繍」、複雑な「マクラメ」や「フリンジ」を多用したドレスは、一着1,500フラン(現在の価値で約150万円以上)という法外な価格で取引されました。

シャルル・フレデリック・ウォルトがナポレオン3世に重用された真の理由は、経済戦略にありました。
シャルル・フレデリック・ウォルトは自らのドレスにフランス・リヨン産の絹織物を指定して使用することで、当時衰退していたリヨンの絹織物産業を見事に復興させました。

シャルル・フレデリック・ウォルト彼は自身のデザインしたドレスの複製権(パターン)を、イギリスやアメリカの既製服バイヤーに対して販売しました。
「ライセンス販売」の先駆けと言えるモデルです。

シャルル・フレデリック・ウォルトが女性を解放した?

シャルル・フレデリック・ウォルトが考案したクリノリン・スタイルは女性が窮屈な思いで服を着ることから女性を解放することなりました。

クリノリン・スタイルとは、 鯨のひげや鉄の輪でスカートを大きく膨らませた、華美なシルエット。

常から、女性がコルセットにより窮屈な服装をしていることに疑問を抱き、その窮屈さから解放するスタイルを考案しました。

シャルル・フレデリック・ウォルトの現在は?

1954年に、メゾン「ワース・エ・ボベルグ」を閉じました。

シャルルフレデリックウォルトの残した功績は現在も残っていますが、ファッションブランドは幕を閉じています。

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