代表作ルノワール絵、どんな人?代表作?肌好き?晩年は?

かつて、フランスの絵画でブームとなった印象派の画家たちを知っていますか。
19世紀後半のフランスで起こった芸術運動で、光や色彩を絵画で表現しようとしていた人たちです。
三菱一号館美術館(東京・丸の内)で「オランジュリー美術館 オルセー美術館 コレクションより ルノワール×セザンヌ―モダンを拓いた2人の巨匠」という切り口の展覧会を観てきました。
印象派と語られるルノワールですが、大切にしていたことがありました。

まさに生きるエネルギーを作品に収めたルノワール

 

ルノワール、どんな人?

ルノワールは本名ピエール・オーギュスト・ルノワールは1841年リモージュ生まれ。
彼が4歳の時に家族とともにパリに移り住みました。
まじめで頭がよく、音楽の才能があると思われて、教会の聖歌学校に入れられ、当時の聖歌隊指揮者の個人レッスンまで受けることになりました。

ところが、オーギュストは自分の生活費を稼ぐ必要を感じ、セーブルの焼き物工場に勤めるつもりで絵付師になりました。
当時、大芸術に惹かれ、暇があるとルーブルに行って絵画や彫刻を学ぶようになったのです。

絵付師としての腕前があがり、まとまった金を稼げるようになると、将来のために収入の大半を蓄えるようになっていきました。
ある日、かれは古い模様を写すのを辞めて、コーヒー・カップに自分がデザインした花をいくつか描いて顧客の一人に渡しました。
顧客は、それがオーギュストの装飾と知ると、年代物のセットしかいらないと断りました。

オーギュストは、古いセーブル焼きから絵をとったと反省した途端に顧客が買い上げてくれました。
その後、カップ、サラ、扇子の絵までオーギュストの仕事は広がっていきました。やがて18世紀のフランス絵画を知り、愛するようになっていきました。
ルノワールーその芸術と生涯ー F.フォスカ著 美術公論社

仕事を広げる一方で、芸術に関して何もしない訳ではありません。
お金がたまれば美術学校の夜のクラスに通ったり、ルーブルに通いました。
やがて、別の画家のアトリエで画家仲間と出会いました。
クロード・モネ、フレデリック・バジール、アルフレッド・シスレーでした。

ルノワール、代表作?

1876年ルノワールにとってターニングポイントとなる年となりました。
多くの民衆に支持されたのが「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」という作品です。
ルノワール自身は、この作品にこれまで積み重ねてきたあらゆる絵画の取組を込めたのです。

光と影の作用
色彩研究の成果
若いボヘミアンの雰囲気

ダンスホールであるムーラン・ド・ラ・ギャレットは、グランドのような場所に建っていた小屋だったそうです。
近くには風車(ムーラン)小屋があり、普段は羽車は動いていませんでした。

この作品ではありませんが、ルノアールの作品に目を止めた実業家がいました。
それが、若き出版家であるジョルジュ・シャルパンティエでした。
その妻であるシャルパンティエ夫人が開く自宅サロンには様々な有名人が集まり、ここから肖像画を画く依頼が続いて行きます。

この二人の間には信頼関係が続いて行きます。
それは二人の間に交わされた(ルノワールからの一方的な)書簡に残されているのです。
もちろん、夫のジョルジュ・シャルパンティエとの間にも信頼関係があり、彼には金銭的問題を扱う手紙が多かったようです。

親愛なる友へ。ちょっと頼みたいのですが、月末までに三百フラン貸してもらえないでしょうか。大変申し訳ないと思っていますし、こういうことはこれが最後です。今後は平々凡々たる手紙だけを書いて頼みごとなどしないつもりです。中略

ところで、奥方に、かの女の忠実なる画家に代わって行ってください。『万一小生が成功すれば、それは貴女のおかげです。』と。確かに小生一人の力でできることではないのです。ほんとうに、もっと早く成功すればよかった。それだけ早く、小生の感謝の気持ちが伝えられたのに。
ルノワールーその芸術と生涯ー F.フォスカ著 美術公論社

この時期、ルノワールはサロンに自分の作品を出品することを始めました。
フランスの画壇で成功を収めるには、サロンで認められることが大事な条件でしたから。

サロンに出したことで、ルノワールは少しずつ認められ始めました。
批評家たちはこぞって『シャリパンティエ一家』を賞賛したからです。

そして、肖像画画家としても認められるようになっていきました。
サロンに出品する人物画や風景画は買い手がつかないけれど、肖像の注文は経済的な意味がありました。
晩年の30円間は、人物や風景、静物などの絵で充分生活費が稼げるようになると肖像画は描かなくなっていきました。

 

ルノワール、肌好き?

ルノワールという画家は、女性の肖像画を描いています。
幼い子どもから大人の女性まで、幅広い年代の女性たちを。

若い女性、少女、子どもと言った瑞々しく美しい人を描いています。
ピンクのほほや長いまつ毛、華やかな衣装や屈託のない明るい青年の姿に惹かれたから。

彼が描く女性は、リラックスしているし、微笑んでいるし、肌がキレイという共通点があります。
まさに生きているエネルギーに満ち溢れた少女や女性たちが描かれています。
作品の中では、幸せそうに微笑みを浮かべるように特に頬の輝きが目に飛び込んできます。

ルノワールは、印象派として位置付けられていますが、光が当たってみえた時の肌の美しさ、そしてモデルになった女性の美しさを引き出そうと努めているように感じます。

どんな美しい風景よりも、ひとりの女性の美しい曲線をたどるのが楽しかったのだと思います。

その先に、光をとどめた肌の描写に成功していたということになります。
肌好きというより、光をとどめた肌を描き続けて到達した人間を描くという手法を創り上げたのだと思います。

ルノワール、晩年は?

40代後半、ルノワールは関節炎に見舞われます。
さらに顔面神経痛の発作で顔の一部がマヒするというアクシデントも体験します。

湿気が大敵だったようで、パリの冬を逃れ、プロヴァンスに滞在することもありました。

湿気が多い場所に滞在するのも避けますが、あちこちを動き回ることもリューマチが進行していくことになりました。
ルノワールの晩年は、弱っていく体を抱えながらの人生となりました。

車いす生活になっても描くことは続いて行きました。
やはり女性を描くことは続いていました。

生き生きとしたモデルである女性たちを描き続けたルノワール。
印象派とひとくくりにするのは、何だか違うなあと思います。
生きることへの執着だったのかもしれません。

まさに生きるエネルギーを作品に収めたルノワール

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