フランスの絵画でブームとなった印象派の画家たちの話題です。
印象派とは、19世紀後半のフランスで起こった芸術運動で、光や色彩を絵画で表現しようとしていた人たちを総称します。
印象派と語られるルノワールについてみていこうと思います。
ルノワール特徴
ルノワールは、女性の肖像画をたくさん描いています。
幼い子どもから大人の女性まで、幅広い年代に渡ります。
子ども、少女、若い女性たちを瑞々しく美しく描いています。
ピンク色のほほや長いまつ毛、華やかな衣装や屈託のない明るさが描かれています。
彼が描く女性は、リラックスしていて、微笑みを浮かべ、美しい肌という共通点があります。
まさに生きるエネルギーに満ち溢れた少女や女性たち。
作品の中では、幸せそうに微笑みを浮かべて輝く頬の女性たちが目に飛び込んできます。
ルノワールは印象派であるとくくられていますが、光が当たった肌の美しさ、そしてモデルになった女性の美しさを引き出そうと努めているように感じます。
どんな美しい風景よりも、ひとりの女性の美しい曲線をたどるのが楽しかったのでしょうか。
光をとどめた肌の描写に成功していたということになります。
肌の描写を続けたからこそ、生命のエネルギーに満ちた人間を描くという手法までたどりつけたのかもしれません。
このようなルノアールの作品に目を止めた実業家がいました。
若き出版家であるジョルジュ・シャルパンティエでした。
その妻であるシャルパンティエ夫人が開く自宅サロンには様々な有名人が集まり、ここから肖像画を画く依頼が続いて行きました。
そういう意味では、肖像画を描き続けたからこそ女性の肌を美しく描けたのかもしれません。
この二人の間には信頼関係が続いて行きます。
それは二人の間に交わされた(ルノワールからの一方的な)書簡に残されているのです。
夫のジョルジュ・シャルパンティエとの間では、金銭的なお願いの手紙が多かったようです。
一方で、夫人のジョルジュ・シャルパンティエにも助けてもらっていた様子がうかがえます。
親愛なる友へ。ちょっと頼みたいのですが、月末までに三百フラン貸してもらえないでしょうか。大変申し訳ないと思っていますし、こういうことはこれが最後です。今後は平々凡々たる手紙だけを書いて頼みごとなどしないつもりです。中略
ところで、奥方に、かの女の忠実なる画家に代わって行ってください。
『万一小生が成功すれば、それは貴女のおかげです。』と。
確かに小生一人の力でできることではないのです。
ほんとうに、もっと早く成功すればよかった。
それだけ早く、小生の感謝の気持ちが伝えられたのに。ルノワールーその芸術と生涯ー F.フォスカ著 美術公論社
肖像画を描いていたルノワールはサロンに自分の作品を出品することを始めました。
フランスの画壇で成功を収めるには、サロンで認められることが大事な条件でしたから。
肖像画を描くことで、名前が知られるようになったこともあったと思います。
サロンに出したことで、ルノワールは少しずつ認められ始めました。
批評家たちはこぞって『シャリパンティエ一家』という作品を賞賛したからです。
そして、肖像画画家としても認められるようになり、サロンでも認められるようになった。
サロンに出品する人物画や風景画は買い手がつかないけれど、肖像の注文は経済的な意味がありました。
晩年の30年間は、人物や風景、静物などの絵で充分生活費が稼げるようになると肖像画は描かなくなっていきました。
画家ルノワール
ルノワールは本名ピエール・オーギュスト・ルノワールは1841年リモージュ生まれ。
彼が4歳の時に家族とともにパリに移り住みました。
まじめで頭がよく、音楽の才能があると思われて、教会の聖歌学校に入れられ、当時の聖歌隊指揮者の個人レッスンまで受けることになりました。
ところが、オーギュストは自分の生活費を稼ぐ必要を感じ、セーブルの焼き物工場に勤めるつもりで絵付師になりました。
絵付師としての腕前があがり、まとまった金を稼げるようになると、将来のために収入の大半を蓄えるようになっていきました。
ある日、かれは古い模様を写すのを辞めて、コーヒー・カップに自分がデザインした花をいくつか描いて顧客の一人に渡しました。
顧客は、それがオーギュストの装飾と知ると、年代物のセットしかいらないと断りました。オーギュストは、古いセーブル焼きから絵をとったと反省した途端に顧客が買い上げてくれました。
その後、カップ、サラ、扇子の絵までオーギュストの仕事は広がっていきました。やがて18世紀のフランス絵画を知り、愛するようになっていきました。
ルノワールーその芸術と生涯ー F.フォスカ著 美術公論社
仕事を広げる一方で、お金がたまれば美術学校の夜のクラスに通ったり、ルーブルに通いました。
やがて、別の画家のアトリエで画家仲間と出会いました。
クロード・モネ、フレデリック・バジール、アルフレッド・シスレーでした。
1864年にはサロンに作品が初めて入選する。
その後も、たびたび出品しては入選と落選を繰り返したが、次第に保守的で革新的な手法を受け入れようとしないサロンのあり方に疑問を抱くようになっていく。
1870年の《水浴の女とグリフォンテリア》がサロン(官展)に入選した後、印象派としての実験を推し進めていた1870年代の大半は、画壇の異端児と見なされ絵が売れなくて苦労した。
1874年、ルノワールはモネら画家仲間たちとともに、無審査で自由に作品を展示できる場所を設けるために共同出資会社を設立し、自分たちだけのグループ展(第一回印象派展)を開催した。
このグループ展に、ルノワールは〈桟敷席〉を含め7点の作品を出品したが、展覧会は酷評にさらされ、作品も売れなかった。
1876年の第二回には、17点を出品。そのうちの一つが、木立の中に座る裸婦の半身を描いた〈陽光の中の裸婦〉だ。裸婦の肌に落ちる木漏れ日を白い斑点として表し、顔のくぼみなど影になる部分を青や紫の色調で描くという画期的な手法を用いた意欲作だった。
1879年に《シヤルパンティエ夫人と子供たち》が同夫人の後ろ楯もあってサロンで好評を博し、以後は肖像画の注文もはいったが、1880年代には、新たな造形的実験が経済不況の時期とも重なり、引き続き苦労の連続だった。
1880年代前半には赤と青の対比が多かったが、後期のルノワールは赤・緑を多用することになる。補色関係にあり本来衝突しあうこの二色に、白を混ぜてやや淡くしつつ全体の明度を揃えることによって、心地よい響きを生んでいる。
1890年頃、後期の安定した様式に達し、国家に本作品が買い上げられて巨匠の地位を確立したのである。
この作品は美術総監アンリ・ルージョンの名で、当時の国立現代美術館であるリュクサンブール美術館への買い上げを前提に制作を依頼されたものである。
この頃、ルノワールは40代後半になって関節炎に見舞われます。
さらに顔面神経痛の発作で顔の一部がマヒするというアクシデントも体験します。
湿気が大敵だったようで、パリの冬を逃れ、プロヴァンスに滞在することもありました。
湿気が多い場所に滞在するのも避けますが、あちこちを動き回ることもリューマチが進行していくことになりました。
ルノワールの晩年は、弱っていく体を抱えながらの人生となりました。
車いす生活になっても描くことは続いて行きました。
やはり女性を描くことは続いていました。
生き生きとしたモデルである女性たちを描き続けたルノワール。
印象派とひとくくりにするのは、何だか違うなあと思います。
生きることへの執着だったのかもしれません。
ルノワールピアノを弾く少女
ルノワールによって描かれたピアノを弾く少女はほぼ同じサイズで5枚描かれたということが言われています。
ただし、『ピアノを弾く少女たち』、『ピアノの前の少女たち』とも。
以下、美術館名を記しておきます。
ネブラスカジュリアン美術館所蔵 『ピアノを弾く二人の少女』赤いドレスを着た少女が描かれている。
オルセー美術館所蔵 1892年 『ピアノに寄る娘』 国家に買い上げられた作品 白いドレスの少女が描かれている。
メトロポリタン美術館所蔵 1892年 『ピアノに寄る娘』オルセー所蔵の作品に近似。白いドレスを着た少女が描かれている。
オランジュリー美術館所蔵 1892年『ピアノを弾く少女』ややスケッチ風の画風。
オランジュリー美術館所蔵 1897年『ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロル』
肝心のモデルとなった少女は一体誰なのかわかっていませんが、当時はピアノを弾けるのは上層階級の人たちだけだったそうです。
美しい色合いでルノワール独特の柔らかなタッチが少女をより美しく見せてくれます。
ルノワールは、数年前に一度描いたピアノを弾く二人の少女の題材を選び、5枚のほぼ同じ大きさのキャンヴァスに、微妙に色彩とポーズが違うヴァージョンを描き上げて、その中からルージョンに選ばせたと。
ここでルノワールは、現実生活の描写から離れずに、なおも印象派時代と違う普遍的なイメージに到達することができた。
ルノワールターニングポイント
1876年ルノワールにとってターニングポイントとなる年となりました。
多くの民衆に支持されたのが「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」という作品です。
ルノワール自身は、この作品にこれまで積み重ねてきたあらゆる絵画の取組を込めたのです。
光と影の作用
色彩研究の成果
若いボヘミアンの雰囲気
ダンスホールであるムーラン・ド・ラ・ギャレットは、グランドのような場所に建っていた小屋だったそうです。
近くには風車(ムーラン)小屋があり、普段は羽車は動いていませんでした。
近代という時代は純粋性・普遍性を追究する時代だったが、ルノワールは20世紀のモダン・アートとは別のやり方で、それを実現したと言っていい。
そのことは、とりわけルノワール後期の様式に憧れを持ち、むしろこれを普遍的な言語として受け入れようとした私たち日本人にはよく分かるのである。

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