トリアノン、場所は?マリー・アントワネットは?心はどうなるの?

トリアノンを知っていますか。
ヴェルサイユ宮殿の片隅に建つ小さな城であり、別荘です。
宮殿から隔離されていながら、遠すぎない距離にありました。
部屋は全部で7~8つ、控えの間、食堂、大小の客間、寝室、浴室、小図書室。
実は、繊細で控えめで、明るさを感じる様式でマリー・アントワネットに必要な場所でした。

人は自分らしくなれる場所が必要である。

トリアノン、場所は?

マリー・アントワネットの活動する範囲は決まっていました。
ヴェルサイユ、トリアノン、マルリー、フォンテーヌブロー、サン=クルー、ランブイエ。
ごく狭い範囲にある宮殿が彼女の世界でした。

マリー・アントワネットの一日は重要なセレモニーとともに始まりました。
今日はどの衣装にするかを決めることでした。
謁見用大礼服、午後の部屋着、晩餐用の盛装などのほかにもドレスだけではなく、装身具も化粧も、でも半日しか持ちません。

気がかりは、何をして遊ぶのか、夫のルイ十六世は一緒にいても退屈なのでほかの人が必要。
でも、一人ではいたくない。
本を読んだり夫と一緒の夜など過ごしたくない。
ただただ、退屈するのが怖かった。

ヴェルサイユ宮殿での自由はあり得なかった。
ひとりでいることも、ふたりきりになることも、くつろいだり休んだりすることもできなかった。
ありとあらゆる生活の行為が、国事となってしまうから。

自由にふるまいたいマリー・アントワネットは、いつでも喜んでいいなりになるルイ十六世に隠れ家をねだったのです。
そこにいる時だけは、王妃である必要がない隠れ家。
ルイ十六世は、弱気な性格から妻のために、結婚プレゼントとして、夏の離宮トリアノンを彼女に贈り、これがフランス王国第二の王国となっていくのです。

実は、この場所は、ルイ十五世が人目につかない愛の巣として大いに利用していたのです。
しかも国庫から別荘建設費用に支払われたかなりの額を使ったこの城をマリー・アントワネットは引き継いだのです。

とにかく、マリー・アントワネットはトリアノンにいれば、気分が晴れる。
その後、王妃は毎年、手の込んだ、自然な造りもので、自分の王国トリアノンを美しくしたいと新たな欲求にとらわれていきます。

ヴェルサイユ宮殿での暮らしは、常に多くの観衆にみられながらの生活だったといいます。
トイレや出産までも、プライバシーなどがない宮殿。
マリー・アントワネットが望んだ隠れ家がほしいという気持ち、理解できないことはないです。

ルイ十五世がどのように使っていたかなんて、気にならない。
トリアノンにいれば、くつろいで過ごすことができたからです。

トリアノン、マリー・アントワネットは?

マリー・アントワネットの結婚が政略的に持ち上がった時、彼女が11歳の時と言われています。
フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家は長い間、ドイツ・イタリア・フランドルを戦場にヨーロッパの覇権争いをつづけてきました。
カトリックを離脱したイギリス、プロテスタントのプロイセン、違う宗教のロシアなどフランスとオーストリアを脅かす存在を心配する声が広がっていました。

そして、心配する声はフランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家を血縁で結びつけようという動きとなっていきました。
最初は、オーストリア皇帝ヨセフとフランスの王ルイ十五世の三人の娘の結婚が浮上しました。
2回も王妃を亡くしたオーストリア皇帝ヨセフはルイ十五世の娘たちとの結婚をは気乗りがしていなかった。

という理由で、将来を継ぐ若き王太子とマリア・テレジアの娘のひとりを婚約させる方向へと進み始めました。
日本でも、さまざまな時代に政略結婚がおこなわれていました。本人の意思確認もできない年齢で行われていました。

一方で、マリー・アントワネットはすくすくと育ち、シェーンブルク宮殿の中を遊びまわる元気な少女でした。
ただ、元気過ぎてじっくりと勉強の時間をとるような性格ではなかったようです。
母親のマリア・テレジアは遅れを取り戻すために、未来のフランス王妃となるために教育係りを探しました。
これに対して、フランスは未来の王妃の教育担当を自国から派遣することにしたのです。

こうして、フランスではルイ十五世の孫とマリー・アントワネットの正式な結婚の段取りが始まりました。
本人同士よりも、両国同士の思惑やプライドによって、結婚式の日程が決められていきました。
送る側のオーストリアからフランス国境までの付き添う人々が決まっていきました。
さらに、国境からヴェルサイユ宮殿まで、フランス王位継承者妃に付き従う人数も決まっていきました。

マリー・アントワネットの引き渡しは、両国の中立を守るために、フランスとドイツの間を流れる川にある無人島に決まったのです。

この引き渡しの儀は、彼女とオーストリア宮廷を結び付けるすべてのものからの決別を意味しました。
引き渡しにあたり、フランス王太子妃としてフランス製の衣服しか身につけてはいけないため、オーストリア側の控えの間でオーストリア随行員の目の前で肌をさらすことになりました。
薄暗い部屋の中で、フランス製の絹の肌着、パリ製ペチコート、リヨン製ストッキング、宮廷御用達の作った靴、レース、リボンに至るまでフランス製をまとったのです。
オーストリア製のものは、思い出があったとしてもすべてを国境に置いていくという厳しい対応でした。

マリー・アントワネット上巻より抜粋

マリー・アントワネットに関してイメージがあまりよくない印象がありました。
だから、本人に関して、ほとんど情報を得ることはありませんでした。
ところが、シュテファン・ツヴァイクによる伝記文学を読んだ時に衝撃を受けました。
これまでも政略結婚は世界中でおこなわれていました。
でも、このマリー・アントワネットの伝記を読むと、本人の気持ちなどまったく考えずに結婚が進んで行ったことがわかります。
そして、フランスとオーストリアの双方の対面を守るために、ライン川の中州である無人島で引き渡しの儀式があったことを知って、マリー・アントワネットの孤独がはっきりして、言葉がでませんでした。
勉強嫌いで、行動力のあったマリー・アントワネットを本気で愛して接する大人の存在はなかった訳で、人間力を鍛えるどころではないし、彼女の気持ちを聴く人も少なかったと思います。

 

トリアノン、心はどうなるの?

マリー・アントワネットが夫ルイ十六世から受け取ったトリアノン。
設計者は、この小さな城を単なる娯楽施設ないし別荘として作りました。
簡素で古代ギリシャ・ローマ様式、庭の緑に白が映えた建物。

おしゃべりしたり、気楽にくつろぐ客間。
重い綾織物ではなく、とろりとしたクリーム色、桃のようなピンク、春の日の青、淡く優しい色調が中心となり、肩の力が抜ける空間ですね。

王妃マリー・アントワネットはここにいると気分がいいため、ゆるんだ心とカラダは夕方ヴェルサイユにもどることを億劫になっていきました。

彼女は、トリアノンで何の心配もなく自分自身を生きたいと願ったのです。

マリー・アントワネットは、トリアノンを装飾するために次々と新しいものを手い入れたくなっていきました。
一番、心を砕いたのが庭園です。イギリス風チャイナ庭園が完成しました。
フランス、インド、アフリカの樹木、オランダのチューリップ、南国のマグノリア、そして、池、小川、山、洞窟、ロマンティックな廃墟、田舎の家、ギリシャの神殿、東洋的な景色、オランダの風車・・・・・
音楽堂、森の小道、草原に咲く草花、すべてが人工的に作られたとは思えない出来栄えでした。

さらに自然をもっとも自然としてみえるようにさらに手が加わりました。
本物の俳優が呼ばれ、本物の農夫、本物の農婦、本物の牝牛を連れた本物の乳しぼり娘、子牛、豚、ウサギ、羊、本物の草刈り人、収穫人、羊飼い、洗濯人、狩人、チーズ作り人、彼らは草を刈り、洗濯し、肥料をまき、乳を搾り、マリオネット人形みたいに陽気に動き回っていました。

厩舎、干し草小屋、納屋、ハト小屋、鶏小屋をふくむ実物大の人形劇場が誕生していきました。
マリー・アントワネット上 シュテファン・ツヴァイク著 抜粋

女児だったら全員がとまで言わなくても、人形遊びに無中になる小女時代を過ごした自分から見ると、トリアノンが段々劇場のようになっていく様子は、少しつらい気がします。

一時、はやったシルヴァニアファミリーやリカちゃんハウスと同じです。
少女時代の人形遊びが、政略結婚で心を開く場所がなかったマリー・アントワネットの唯一、肩の力を抜いて過ごせる空間が、トリアノンでした。

造り上げていくものは、少々、常軌を逸している面はありますが、心を埋める代替の場所だったと言えます。

自由になりたい。
遊びたい。
くつろいで過ごしたい。

人は自分らしくなれる場所が必要です。

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