フランスの作家には、名言を残した人が多いです。
名言とは、読んだ人が人生にとって、勇気づけられたり、立ち直るきっかけとなることだってあります。
今回は、亡くなった後に、マルセル・プルーストに評価されたギュスターブ・フローベルをご紹介します。
ギュスターブ・フロベールの文体の斬新さやその革新性が重要な価値だとされたのです。
ギュスターブ・フローベル名言
フローベルは10代から才能を発揮しましたが内向的で、成長して神経を病んだ時期もあったため、言葉に深みのある名言を残しました。
フローベールの言葉は、現代を生きる私たちにも、深く響くものがありますよね。
名言だけではなく、彼の作品を読み、彼の言葉に触れることで、何か発見があるはずです。
彼の残した言葉を胸に、日々の生活を送ってみてください。
「人生でもっとも輝かしいときは、いわゆる栄光のときなのでなく、落胆や絶望の中で人生への挑戦と未来に成し遂げる展望がわき上がるのを感じたときなのだ」
人生で最も輝くのは栄光のときではなく、どん底から挑戦する考えが沸き上がる時だ!」
「神はすべての人間を創造し、そしてそれぞれに苦しみを与える」
人間の苦しみに対する彼の深い洞察を示唆しています。
人生には、良いことも悪いこともありますが、誰もが何らかの苦しみを抱えています。
そんな現実を受け止め、それを乗り越えていくことの大切さを教えてくれますね。
人生の意味を示す名言もあります。
「人生は絶えず学ぶべきものである。話すことから死ぬことまで、すべてを学ばなければならない。才能は長い努力の賜物である・・・」
「成功は結果であって、目的ではない」
「人生で最も輝かしい時は、いわゆる栄光の時でなく、むしろ落胆や絶望の中で人生への挑戦と未来への完遂の展望がわき上がるのを感じたときだ」
「記憶は美しいものであり、それはほとんど望みを失うことだ」
人生にとって大事なことを示唆する名言もあります。
「旅は人間を謙虚にします。世の中で人間の占める立場がいかにささやかなものであるかを、つくづく悟らされるからです」
「君の生涯の最も輝かしい日は、いわゆる成功の日ではなく、悲嘆と絶望の中から、生への挑戦の気持ちと、今に見ろ、やってみせるぞ、という気持ちとが湧き上がるのを感じる日である」
「書くことは美味しいものであり、自分自身ではなく、自分の創造した全宇宙で動くことだ」
教訓にしたい名言もあります。
「すべての根本は虚栄だ。われわれが良心と称するものすら、結局は虚栄の隠れた萌芽にすぎない」
「メランコリーは悲しむことの幸せだ」
「我々は年をとるにつれて、自分の能力の限界を知る」
書籍は?
全集がでているほど、作品が多く執筆されていますが最初の執筆は15歳でした。
最初は「狂人日記」執筆。
この作品が元で、放校されることになりました。
その後はバカロレアを取って自力でパリ大学に入り、1842年、「十一月」執筆。
残念ながら、学業を辞めて故郷ルーアンに近い町クロワッセに移り住んだ時期に『感情教育』初稿を執筆。
1869年に『感情教育 ある青年の物語』を発表。
1874年『聖アントワーヌの誘惑』第3稿として刊行するが、中世を舞台とした幻想的かつ哲学的な作品であり、のちに象徴主義を標榜する文学者や芸術家たちを魅了する。
1877年、短編集『三つの物語』を発表。
1880年『心の城』を発表。
ギュスターブ・フローベルの書籍と言えば次の作品があります。
『ギュスタブ・フローベル全集 10巻』
『ボヴァリー夫人』
『サランボー』
『感情教育』上・下
『聖アントワーヌの誘惑』
『ブヴァールとペキュシェ』
『純な心』
『往復書簡サンド=フローベル』
『聖ジュリアン伝』
『エロディア(ヘロディアス)』
『三つの物語』
ギュスタブ・フローベルの代表作と言えば、ボヴァリー夫人と言えます。
フローベールは1849年頃、ある実際の事件をヒントに小説を書くことを考えます。
それがボヴァリー夫人でした。
しかし、この作品を執筆するのに約5年の歳月がかかりました。
裁判にまで発展した問題作です。
1856年、この小説は雑誌に連載されます。
しかし作品の内容が「不道徳だ」と批判され、なんとフローベールは裁判にかけられてしまいます。
問題とされたのは、
不倫
欲望
借金
社会の偽善
などを、非常にリアルに描いていたことでした。
あらすじ
田舎医者ボヴァリーの美しい妻エマが、凡庸な夫との単調な生活に死ぬほど退屈し、生れつきの恋を恋する空想癖から、情熱にかられて虚栄と不倫を重ね、ついに身を滅ぼすにいたる悲劇。
厳正な客観描写をもって分析表現し、リアリズム文学の旗印となった名作である。
ボヴァリー夫人は虚栄をと不倫を重ねて身を滅ぼしました。
ぜいたくな暮らしをするあまり借金を抱え込むこと。
ボヴァリー症候群と言われています。
ギュスターブ・フロベールはこの小説でバルザックやスタンダールが始めた現実主義小説の手法をさらに徹底させました。
文学に関して高い理想を抱き、文体や構成について徹底的に考え抜くことによって、散文小説を無類の芸術作品の域にまで高めてみせました
ギュスターブ・フローベルの創作方法は、
一語一語を徹底的に選び
何度も書き直し
完璧な文章になるまで推敲する
という、非常に厳しい創作方法をとっていたからです。
さらに、彼は自分の文章を大声で読み上げ、音の響きまで確認していたと言われています。
音の響きまで確認していたのは、フランス語ならではと思います。
ギュスターブ・フローベルとは
ギュスターブ・フローベルは当初は法律を学びますが、途中で法律から離れ、文学の道を歩みました。
ギュスターヴ・フローベールは、19世紀フランスを代表する小説家で、代表作には『ボヴァリー夫人』があります。
彼の作品は、写実主義という考え方を基盤としており、人間の感情や社会のありようを、客観的かつ詳細に描き出すことに長けていました。
19世紀フランス文学の名作として知られる『ボヴァリー夫人』。
この作品を書いたのが、フランスの作家ギュスターヴ・フローベールです。
彼は「文章を極限まで磨き上げる作家」として有名で、たった一行の文章のために何日も悩むこともあったと言われています。
ギュスターブ・フローベールの生涯は文学への姿勢があったからです。
彼の作品は、その精密な描写と心理描写で多くの読者を魅了し続けています。
フローベールは 1821年12月12日、フランス北部の都市ルーアン の病院で生まれました。
父親は病院の外科医長で、家族は病院の敷地内で暮らしていました。
母親はカロリーヌ(旧姓フルリオ)
父の後を継いで医師となったのは、長兄アシルでした。
この医師の父は、のちに『ボヴァリー夫人』の中に登場する医師の人物像のモデルにもなっています。
フローベールには兄弟姉妹がいましたが、多くは幼くして亡くなり、
特に妹カロリーヌ とは深い愛情で結ばれていました。
彼女は生涯を通じて、フローベールの大切な家族であり精神的な支えでした。
幼い頃のフローベールは、家に仕えていた女性から昔話を聞いたり、本を読んでもらったりして育ちます。
中でも大好きだった本が、スペイン文学の名作ドン・キホーテでした。
11歳のとき、フローベールはルーアンの学校に入学します。
成績はあまり良くなく、同級生ともあまりうまく付き合えませんでした。
どちらかというと内向的で、空想や読書の世界に浸る少年だったのです。
この頃から彼は、歴史上の人物の生涯を書いたり、短い物語を書いたりと、文学への興味を強めていきます。
16歳頃には、地方新聞に文章を発表するなど、すでに作家としての第一歩を踏み出していました。
家族の希望で法律を学ぶためにパリに出たフローベールでしたが、次第に法律への興味を失っていきます。
やがて試験にも出なくなり、文学に専念することを決意しました。
しかし17歳頃から、彼は神経の病に苦しむようになります。
これは現在ではてんかんと考えられている発作でした。
この病気の影響もあり、彼は普通の社会生活や職業を持つ道を断念し、文学に人生を捧げる決意をします。
その後、彼は家族の別荘があるクロワッセに住み、静かな環境の中で創作に集中する生活を送るようになります。
この場所で、彼の代表作の多くが書かれました。
1851年、オリエント旅行に出かけて帰国後に『ボヴァリー夫人』執筆開始。
5年後に『ボヴァリー夫人 地方風俗』完成。
ところが、この作品が人妻の不倫を題材したという理由により風俗壊乱の容疑で訴えられる。
裁判では無罪を勝ち取った。
この裁判も含め、大いに評判を呼び、ギュスターブ・フローベルの名が知られることとなりました。
作者の名を世に知らしめました。
1858年にチュニジア、アルジェリアに旅行。
1862年11月、古代世界を舞台とした壮大な絵巻『サラムボー』を刊行。
この作品はロマン主義的な作品であり、ギュスターブ・フローベルが持っている多様性・豊穣性を示しています。
晩年のフローベールは、友人の死や家族の問題、経済的困難などに悩まされます。
それでも彼は創作を続け、『ブーヴァルとペキュシェ』という作品を書いていました。
しかし1880年5月8日、脳出血のため急死します。
この作品は未完のままとなりました。
家族の期待に応えようと法律家の道をスタートしますが、学びには真底打ち込めずにいたギュスターブ・フローベルは言葉を使った作家としての道を歩み、今ではたくさんの名言を残したことで人の人生に勇気を与える人となったということに感慨深く思います。

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