フランス生まれで後世にまで名前が残るほど活躍した女性はたくさんいます。
その中の一人が、植物学者のジャンヌ・バレです。
彼女はパリ5区Boulangers通りに住んでいました。
初めて世界一周を航海したのは、18世紀の頃でした。
しかも、男装の船長だったというから驚きです。
ジャンヌ・バレ植物
パリ5区、Boulangers通り※に住んでいた植物学者のジャンヌ・バレ(1740-1807)は初めて世界一周航海をした女性です。
女人禁制だった探検家ブーガンヴィルの船に、植物学者フィリベール・コメルソンの助手として男装し、ジャン・バレと偽名で乗り込み、3千種の植物を採集しフランスに持ち帰りました。
彼女の人生を変えたのは、植物学者フィリベール・コメルソンとの出会いでした。
助手として働くうちに、彼の研究に欠かせない存在となっていきます。
ジャンヌ・バレは1740年、フランス・ブルゴーニュ地方の村に貧しい日雇い労働者の娘として生まれました。
ジャンヌ・バレの生涯については、記録が少ないのですが、ある程度の教育を受けていたと推定できます。
それを裏付けるわけではありませんが、伝記作家の一人が彼女の母親がカルヴァン派の教徒であったとされているからです。
別の伝記作家もジャンヌ・バレは地方の牧師から教育を受けていたとしています。
そうでなければ、3千種の植物を採集しながら記録などできないですからね。
フィリベール・コメルソンは、フランスの植物学者であり、博物学者です。
フランスの航海者・探検家・数学者・軍人であるルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルの世界一周探検船に乗船し、植物を採集したことで知られています。
フィリベール・コメルソンは1760年に結婚、結婚後の1764年までの間に、ジャンヌ・バレはコメルソン家に女中として雇われました。
コメルソンの妻は1762年に出産で亡くなりました。
妻亡きあとは、ジャンヌ・バレが家事を担当していたことが想像できます。
1764年、ジャンヌ・バレは婚外子を設けています。
父親は、フィリベール・コメルソンだという可能性が高いとされています。
フィリベール・コメルソンはパリに移住した時も、ジャンヌ・バレが同行し、女中を続けていました。
1765年、養母に預けられた子供が死亡しました。
フランス科学アカデミーから、フィリベール・コメルソンがコメルソンがブーガンヴィルの世界一周探検航海の博物学者として同行することを任じられました。
健康に不安があったフィリベール・コメルソンは、看護人兼身の回りを見てくれる人、さらに採集した資料の整理を行う人材が必要でした。
※パリ5区は、市の中央にある行政区。
パンテオン区と呼ばれることもあります。
セーヌ川の南岸に面しており、シテ島・サン=ルイ島の対岸にあたります。
ジャンヌ・バレ史上初の男装助手
1765年、フィリベール・コメルソンに世界一周探検隊への参加要請が届きました。
フランス海軍のブーガンヴィル提督による大遠征への随行です。
官費で従者を雇うことはできましたが、当時は、女性の乗船は許されていませんでした。
ジャンヌ・バレは愛する研究と冒険をあきらめませんでした。
そこで、ジャンヌ・バレは男装して、彼女を「ジャン」と呼び、見破られることなく検査をパスして乗船することにしたのです。
フィリベール・コメルソンと知り合いであることを隠すため、出発の寸前に雇われることになりました。
フィリベール・コメルソンは、ジャンヌ・バレにパリの住居の家具と一括払いの賃金を贈る公的な書類を残しました。
1766年12月末に・フィリベール・コメルソンとジャンヌ・バレが胸を布で巻いて男装し、「ジャン・バレ」と名乗り、エトワール号に乗り込みました。
博物学者であるフィリベール・コメルソンは調査用の機材を積み込み、船長が広い船室をフィリーヌ・コメルソンと助手の「ジャン・バレ」に与えてくれました。
そのおかげで、船長用のトイレを使うことができたので、他の船員に疑われることはありませんでした。
ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルの世界一周航海エトワール号が出帆しました。
ジャンヌ・バレが男性と偽って乗船をしました。
航海は過酷でした。
病気、飢え、そして嵐。
しかし彼女は怯まず、植物標本を採集し続けました。
モンテビデオに達するまで植物学者に仕事はありませんでした。
フィリベ―ル・コメルソンは、船酔いと足にできる潰瘍に悩まされていました。
ジャン・バレことジャンヌ・バレはフィリベール・コメルソンの看護もしました。
モンテビデオでは、近くの植物を採集しました。
フィリベ―ル・コメルソンは足に問題があったので、機材や標本の運搬といった肉体労働はジャンヌ・バレが行っていたようです。
エトワール号の牧師はブラジルのリオデジャネイロで上陸後に殺されてしまったようですが、フィリベ―ル・コメルソンが船に残っていましたが、植物の採集はしていました。
助手のジャン・バレ(ジャンヌ・バレ)とフィリベーヌ・コメルソンは6000種を超える植物を採集しました。
航海は順調に進んでいたようですが、タヒチに寄港したとき、現地の人々が彼女を一目で女性と見抜きました。
秘密は露見し、航海史上最大のスキャンダルとなりました。
タヒチでの上陸後に、原住民に囲まれ、船にもどらざるを得なくなりました。
食料の不足のため、オランダ領のインドネシアで補給をしました。
当時のフランス領のモーリシャスで停泊した時に、フィリベール・コメルソンの知り合いの植物学者であるピエール・ボワブルが植民地の監督官をつとめていました。
フィリベール・コメルソンは、ピエール・ボワブルの客としてモーリシャスに残ることになりました。
もちろん、ジャンヌ・バレも一緒に残ったのです。
助手兼従者の男性と偽って世界一周探検に加わったジャンヌ・バレ。
モーリシャス島で二人とも下船をさせられます。
未知の植物をこの手で記録したいという思いはありました。
ジャンヌ・バレブーゲンピリア
1769年、探検隊はフランスに帰還。
ジャンヌ・バレは、モーリシャス島で研究を続け、やがて結婚し帰国。
晩年、フランス政府から年金を与えられ、その功績が認められました。
ブーゲンビレアは降ろされる前のブラジルで採取しました。
フランスから出港した1766年より2年後の事でした。
その地でも植物研究の没頭していたフィーリス・コメルソンは病没してしまいました。
エトワール号が帰国した6年後の1775年にジャンヌ・バレはフランスに帰国しました。
モーリシャスで1774年に結婚したフランス下士官の夫と一緒に帰国を果たしました。
世界最初の女性航海者として記録されました。
ブーガンヴィル提督の世界一周航海でフィリベール・コメルソンを助けて働いた功績に対して年200ルーブルの年金が1785年からジャンヌ・バレに与えられることになりました。
ジャンヌ・バレは1807年に67歳でその生涯を終えます。
ブラジルでは、美しい花「ブーゲンビリア」を発見したとも言われます。
長い航海の後、船は現在のパプアニューギニアの一部である、現在のブーゲンビル島に到着しました。
船長のルイ・アントワーヌ・ド・ブーゲンビル(現在のブーゲンビル島の名前の由来)はブカ湾に入港し、植物学者たちを上陸させました。
フィリベール・コメルソンは航海中ずっと体調を崩していたため、指揮権をジャンヌ・バレに譲りました。
ジャンヌ・バレはすぐに島の指揮を執り、実りある科学的探検隊を率いたのでした。
しかし航海の後半で恐ろしい出来事が起こりました。
ブーゲンヴィル号の乗組員が、どういうわけかバレが女性であることに気付いたのです。
当時の乗組員の日記には、この発見は一行がまだパプアニューギニアにいた頃の出来事だと記されています。
いずれにせよ、ブーゲンヴィル号の乗組員たちはその秘密に戦慄しました。
彼らはジャンヌ・バレとフィリベール・コメルソンを襲撃し、船が再びモーリシャスに入港したとき、植物学者たちはそこに取り残されてしまいました。
その後まもなく、フィリベール・コメルソンは島で亡くなりました。
ジャンヌ・バレはその後、フランス兵と結婚して故郷に帰ることができました。
彼女の旅は困難で悲劇的なものであったにもかかわらず、彼女の研究は今もなお影響力を持ち続けています。
今日、この植物学者は6,000種以上の植物を収集・記録したとされています。
ブーゲンビル島の辺鄙な立地と独特の気候が、これらの希少な発見を非常に重要なものにしました。
何世紀にもわたり、生物学者たちはジャンヌ・バレの先駆的な植物研究を基盤として研究を進めてきたのです。

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