映画「レオン」のリュック・ベッソン監督による映画作品が、フランスの国民的英雄として知られる女性を作品としているのをご存知ですか。
その作品は「ジャンヌ・ダルク」といい、舞台がフランスのオルレアンです。
現在のようにフランスが共和国になる前は、フランスの100年戦争と言われた時代があり、フランス王国もオルレアンも常に権力争いが繰り返される時期だったのです。
権力争いに翻弄され潰されたオルレアンの少女ジャンヌ・ダルクを紹介します。
100年戦争 ジャンヌ・ダルク
かつて中世の時代にはフランスとイギリスは常に戦っていました。
イギリスとフランス、この両国の植民地抗争は、ヨーロッパでの大戦争とも連動しており、100年戦争を戦います。
ところが、「100年戦争」といえば、一度きりではなく、中世に英仏両国が争っている(1337~1453)のです。
それに続く二度目の戦争ということで、「第2次英仏100年戦争」(1689~1815)とも呼ばれます。
そして、フランス王国は極度に悲惨な状態に陥りました。
この戦いの渦中にあった、当時のフランス王国のシャルル六世を取り巻く家族も敵味方に分かれる状態でした。
フランス王国シャルル六世の領土は、パリ周辺の小さな部分と東部のシャンパーニュ地方と南フランスに至る細長い部分しかなかったのです。
シャルル六世の妻は、ドイツ・バイエルン出身のイザボー・ド・バヴィエール(ドイツ名はエリザベート・フォン・バイエルン)。
ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公シュテファン3世の長女。
曾祖父は神聖ローマ皇帝ルートヴィッヒ4世。
シャルル六世にはルイ・ドルレアンという弟がおり、実家はオルレアン家です。
シャルル六世の叔父はブルゴーニュ家のブルゴーニュ公フィリップです。
そして、シャルル六世とイザボー・ド・バヴィエールとの間に生まれた息子が王太子シャルルでした。
実は、シャルル六世は狂人だったと言われ、時に正気に戻りますが、一国の元首となる能力はなかったと言われています。
そのため、妻のイザボーが摂政となりますが、彼女はシャルル六世の弟と恋に落ちていきました。こうした背景がフランスを二分していきました。
国王の叔父のブルゴーニュ公フィリップのブルゴーニュ家。
そして、イザボーと恋愛関係にあった国王の弟ルイ・ドルレアンでオルレアン家です。両家は激しい戦いを繰り返し、1407年にオルレアン家のルイ・ドルレアンが殺されます。
ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公フィリップの息子によって。王太子シャルルが次の国王になるかと言えば、母親のイザボーが「わたしが生んだシャルルは国王との間に生まれた子ではない」として、王太子シャルルの廃嫡宣言をしてしまったのです。
聖女ジャンヌと悪魔ジル ミシェル・トゥルニエ 榊原晃三訳 白水Uブックス
ジャンヌ・ダルクが出現する頃、元々、気弱な王太子シャルルは失意の底に陥っていきました。
このころから、ブルゴーニュ家とオルレアン家を中心とするアルマニャック派が争うようになりました。
それ以外にも、イザボーとイギリス側がくっつく事態となりました。
それぞれが勢力争いに明け暮れる中で、失意の王太子シャルルを助けるために手を差し伸べた少女が表れたのです。
ジャンヌ・ダルクが出現しました。
シャルル六世の妻は名門の出である王妃、若さとプライドゆえに王の弟と恋愛に陥ったり、弱いために誰かの力が必要だったのでしょう。
その母から冷たい扱いを受けた王太子シャルル。
でも、嫡男ではないと言われた王太子の気持ちを考えると、傷ついたであろうと想像はできますね。
今のフランスから考えると力がなくて、常にイギリスとも対立をしていたなんて思えません。
ジャンヌ・ダルク どんな人?
ジャンヌ・ダルクはロレーヌの片田舎ドムレミで生まれ、窮地に陥ったフランスをイングランドから解放した人物です。
ジャンヌ・ダルクの故郷ロレーヌ地方は、暑さ寒さの比較的厳しい内陸性気候の高原地帯です。フランスで最も長いロワール川は中央山塊に水源をもち、オルレアンまで北上し、サン・ナゼールで大西洋に注ぐ全長1000kmの川です。
ロワールの自然とともに生き、ロワールとともに繁栄したオルレアン。
この中の古城があり、その敷地は王家の住いとして使用されていました。
オルレアンなどロワール渓谷の主要な町も少なくともローマ時代までさかのぼるルーツを持ち、川沿いの要衝となる位置を占めています。
オルレアンはまた1429年にジャンヌ・ダルクの出現によって解放されました。
ジャンヌ・ダルクは、たった17歳でしたが、フランスをイングランドからの解放に導き、イングランドを相手に戦った100年戦争でフランスの命運を変えました。
1429年の冬の終わりにブルターニュの田舎貴族たちは、ロワール添いのシノン城において、イギリス軍に敗北した王太子を擁護していました。
母親の裏切りにあい、シャルル六世の息子ではないと告げられて確信をもって自分こそ王の後継者であると宣言できずにいた王太子シャルル。
その城に一人の見知らぬ少女(後のジャンヌ・ダルク)が訪れたのを知りました。
ロレーヌの片田舎で生まれた17歳の女性が「自分はフランス王国を救うために天上の王から使わされたというのです。
「天使ミカエル、諸聖女たちを通じて神のお告げがあった」
ジャンヌ・ダルクはオルレアンを開放し、ランスめがけて進撃しました。
なぜなら、王太子シャルルの戴冠をさせたかったからです。
のちにジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ軍にとらえられたのです。
その理由は、神の教えは教会を通じて信者に伝えるもので、信者が神から直接教えを受けることは許されないというのです。
ジャンヌ・ダルクは最初から教会に反していたというものでした。こうして、ジャンヌ・ダルクは北フランスでイギリス側に引き渡されたのです。
裁判は、パリではなくルーアンだった理由はルーアンならイギリスに有利に裁判を進行させることができるから。
イギリス側はジャンヌを異端者として魔女として裁判させたのです。聖女ジャンヌと悪魔ジル ミシャエル・トゥルニエ 榊原晃三訳 白水Uブックスより抜粋
現実ではジャンヌ・ダルクは異端者扱いを受けて、イギリス軍に捕らえられて、裁判にかけられてしまいます。
純粋な気持ちで王太子を救うために行動をしたのに、最後は権力争いによってその命を奪われることになりました。
勢力争いに勝ったり負けたり、自分たちが有利になるためには争いをやめない歴史がずっと長く続いたフランス。
100年戦争が2回もあっ歴史には驚きます。
リュック・ベンソン監督の映画では、オルレアンの解放が描かれています。
旅行でオルレアンを訪ねた時に、サント・クロワ大聖堂に行きました。
この教会は、ジャンヌ・ダルクの戦いを表現したステンドグラスが有名です。
オルレアンの人々はジャンヌ・ダルクの勇気と行動力を称えたから、街の中にたくさんの想い出が残されてもいるのです。
ジャンヌ・ダルク処刑
フランス王国の窮地を救ったジャンヌ・ダルクは最後はオルレアンのヴュー・マルシェ広場で処刑されました。
当時支配していたイングランドにとって安全なこの地で、時の権力者たちの都合で邪魔者、異端扱いされて処刑され、しばらくは人々の記憶からも消されたジャンヌ・ダルク。
聖職者でもないのに神からのお告げを聴いたことが宗教上の異端者扱いとなりました。
純粋な気持ちで、立ち上がっただけのジャンヌ・ダルク。
再び注目されるきっかけは、歴史家ジュール・ミシュレ(Jules Michelet)が取り上げたことがきっかけと言われています。
このジュール・ミシュレは中世の魔女裁判なども調べていく中で、おそらくジャンヌ・ダルクの処刑に至る経過も調べたことと思います。
1920年、死後500年以上経過の後にカトリック教会から聖人と認められました。
ジャンヌ・ダルク教会に近い場所にあるヴュー・マルシェ広場が、ジャンヌ・ダルクが処刑されたと言われる場所です。
権力争いに巻き込まれた形になったジャンヌ・ダルクですが、フランスでは人気があります。
つい最近も、ニースでジャンヌ・ダルクの騎馬像が展示されたというニュースがありました。

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